来年の定められた時にあなたは男の子を抱いていることでしょう
列王記に登場するエリシャという人物は、パンを増やしたり、子どもを生き返らせたり、油を増やしたり、ヨルダン川を二つにわけたりしました。
奇跡は祝福と結びついていることが多いですね。パンを増やすということは、お腹をいっぱいにしますし、生き返るということは命を得るということです。
今日はエリシャのひとつのお話を紹介したいと思います。エリシャは旅をして歩いていましたが、エリシャを助けてくれた女性がいます。この女性は、家の中にエリシャが眠ることのできる場所を設けます。
エリシャが通るときに休めるようにするためです。この女性は親切な女性でした。けれども、この女性には子どもがいませんでした。また夫は年をとっていました。
エリシャは女を呼びました。そして、なにかしてほしいことはあるかという質問をしましたが、女性はその件に関しては答えませんでした。けれども、エリシャの従者であるゲハジは、女性の状況をしっていました。
それでゲハジは、エリシャに「彼女には息子がいません」と告げます。エリシャは、女性を呼びこう告げます。
すると、[エリシャ]は言った、「来年のこの定められた時に、あなたは男の子を抱いていることでしょう。」
(新世界訳聖書 列王記第二4章16節)
そして、エリシャの預言どおり、女性は男の子を授かります。奇跡が起きました。
ヘブライ語聖書の前編を読むと、子どもを授かることは、いつも祝福と結び付けられて語られていることに気づきます。イスラエル人にとっては、結婚して子どもを授かることは、祝福でした。とても嬉しいものでした。
それで、パウロはこの子どもを授かる嬉しい感情を知っていたので、そのたとえをもちいて、霊の子たちを生み出すことも、喜びであるということを語りました。
僕は会衆にこのことを誤解している兄弟・姉妹が多いのではないかと心配しています。それは、霊の子たちを生み出すことは祝福であるけれど、結婚して子どもをもうけることは、制限されるべきであるような印象を持ってはいなかということです。
終わりの日だから、結婚して子どもを作っている場合ではないという話が、会衆によっては、なされていないでしょうか。
ヘブライ語聖書を読むと、子どもをもうけることは祝福と結び付けられています。ですから、聖書の見方は、結婚して子どもをもうけることも、伝道によって霊の子たちを生み出すこともどちらも祝福です。
偏った見方のために、一方の神の言葉が無駄になっていないでしょう。極端に平行の欠いたバランスを失った見方をしていないでしょうか。
エホバは変わらない方です。聖書全体が、神の霊感を受けているので有益です。「子らは神からの相続物である」というエホバの言葉を、人間の伝統のために無にしてはいないでしょうか。
ですから、結婚して子どもをもうけることも、伝道によって霊的な子を生み出すことも、どちらも祝福という、エホバの見方を保っていきましょうね。片方だけが、祝福ではないんですよ。両方が祝福なんです。