強硬ではない態度で神の公正を求め続けるのは必要なこと

 柔和な態度、温和な態度、謙遜な姿勢というのは、まったく口を閉じて、何もかもに従うということとはまったく違う姿勢です。

 聖書中の事例としては、サラは主である自分の夫アブラハムに意見を述べました。そして、それをエホバは是認しました。ヒゼキヤは王として高い立場にありましたが、イザヤの声に耳を傾けました。

 パウロは、イスラエル人とそうではない国民に態度に差をもうけていた使徒ペテロに、意見を述べました。またパウロバルナバは意見の点で激しくぶつかりましたが、パウロバルナバをサタンの子とか不従順の子とは決してみなしませんでした。

 また箴言には「一緒に協議する者たちには知恵がある」と書かれています。平和に意見を交換するというのは、聖書的に何も間違ったことではありません。

 僕が懸念するのは、謙遜という言葉が、多くの場合に「長老に無条件で従う」という意味に用いられていることです。「長老の語る聖書に書かれた神の言葉」ではなくて「長老の趣味や個人的な嗜好」に従うことを求めることは、度を越えています。

 イエスは「神の義を求めなさい」といいました。義という言葉は公正といういう意味です。「神の公正を第一に求めなさい」という意味です。公正を求めるのに、反抗する必要もないし、厳しい言葉遣いも必要もないし、強硬な姿勢も必要ではないです。

 ただ謙遜に、温和に、粘り強く、喜びを保って、平和な方法で、公正について伝え続ければよいだけです。そして、これはクリスチャン会衆において必要なことだと思えます。

 うらみや憎しみ、ねたみや憤り、反抗や攻撃の念を抱いて、長老や統治体やものみの塔協会にアタックする必要はないです。ただ粘り強く、勇気を持って、温和に、平和的な方法で、敬意を保って、神の公正を伝え続けることが大切だと思います。

 そのようにして変化が訪れるのを待ちませんか。