暴力的なテレビゲームをすると奉仕の僕を下ろすようにというマニュアルがあるのかも

 今週のものみの塔には暴力的なテレビゲームをして奉仕の僕を削除された兄弟のお話がでていましたね。普通に読むとこれは長老の決定のように見えます。さらっと読み流してしまいそうな部分です。

 でも(おそらく)これは統治体のマニュアルです。長老は、統治体から送られた「これこれのことをする開拓者や奉仕の僕を模範的でないようにみなしなさい」というマニュアルをたくさん持っています。

 それにあわせて「模範的ではないとみなされた開拓者や奉仕の僕を下ろすように」という方針も合わせて、統治体からだされています。

 よく「開拓者や奉仕の僕は模範的でなければならない」という言葉をよく聞くと思います。このことの隠れた意味は「統治体から出されたマニュアルに合致しない開拓者や奉仕の僕は下ろす」という意味です。

 エホバの証人の長老が、愛によっては歩みにくくなる仕組みが、現在の組織にはあります。これは長老だけの責任ではなくって、愛によって歩みにくくなる誘引力が存在しているということです。僕は統治体にかなりの責任があると見ています。

 聖書には「イエスのくびきは軽い」ということや「愛の律法によって歩む」という指針があります。でも実際長老は、マニュアルによって歩んでいます。

 これは公開講演を聞いただけの人には、信じられないと思います。公開講演では、講演者は、愛によって歩むように話すからです。でも実際に背後にあるのは、山のようなマニュアルです。

 講演者は、表では愛によって歩むという話しをして、裏ではマニュアルによって歩むということをしなければならないのです。これでは表と裏で人格が分裂してしまう可能性が高くなるし、隠すことが上手な人しか長老にはなれない。背後にあるマニュアルを巧みに隠すことができる人しか長老にはなれない。

 また聖書には「見えないものによって歩む」という指針や「内面を清めることによって外面を清める」という指針があります。

 けれどもたくさんのマニュアルによって、長老たちは、見えるものや外見によって歩むという誘引力に誘われます。外から見える外見を過度に気にするという傾向に陥ります。そのマニュアルのために、いつでも兄弟・姉妹たちの外面にばかり注意を払うようになってしまうのです。

 マニュアルというのは、たとえ現実的に必要であったとしても、聖書がのべる愛の律法とは、まったく対極にあるものだということを自覚してほしいと思っています。どうしてこんなにたくさんのマニュアルが必要になってしまったのかを考えましょう。マニュアルが増えていくということは、もっと根本的な部分に問題があるのだと思います。

 ぜひマニュアルを少しづつ減らして「すべての律法は隣人を愛さなければならないに要約される」という聖書の言葉が会衆で実現できるようにしていきましょう。