「キリスト教世界」という言葉を使わないようにする

 今回のテーマは「キリスト教世界」です。最初にものみの塔研究の一文をご覧ください。

キリスト教世界の諸教会は全般的に、神のみ名を使うことを避けてきました。
(2013年3月号 p24)

 読んでみてどうでしょうか。素通りしてしまいましたか。それとも、ひっかかるところがありましたか。キリスト教世界(Christendom)というのは、聖書には現れない用語で、どこから引っ張ってきたのか、独自に編み出した言葉なのかはわかりませんけれど、ものみの塔教会が独自に使っている言葉です。

 キリスト教の諸教会を「キリスト教世界」と呼ぶ習慣は、ものみの塔協会以外には、他には見当たらないと思います。

キリスト教世界という言葉は差別や偏見を生む

 キリスト教世界という言葉は、あきらかに悪い意味で使っているのであって、よい意味で使われることはありません。キリスト教世界と対比されるのは、エホバの証人です。エホバの証人は清い崇拝をしていて、キリスト教世界は、汚れた崇拝をしており、大いなるバビロンとして滅ぼされる対象ということにっています。

 つまり、キリスト教世界という言葉は、エホバの証人の清さを際立たせるために、すべてのキリスト教会を悪者にしているという構図になっています。自分たちだけが神に導かれていて、他はすべて神に導かれていない、そのような主張です。そのような主張や決め付けは傲慢ではないでしょうか。

 こんなことをすればよい信仰を保つことができるどころか、偏見と差別の目を育んでしまうだけだと思います。すれ違ったままになったり、汚れたものだと決め付けるよりも、対話を辛抱強く続けていくほうがずっとよいと思います。

エホバの証人は自分たちが勝っていることを鼓舞される

 公開講演の筋書きのなかには、エホバの証人を賛美するという趣旨のものがかなりたくさんあると思います。「わたしたちエホバの証人は真の崇拝を知っています。なんとすばらしい民なのでしょうか」

 人は誉められるとうれしいものです。だから、ものみの塔教会は、「あなたが真の崇拝を知ったのはとってもすばらしい。わたしたちが真の崇拝を知っていることはすばらしい。」と誉めます。

 すると、個人個人の心の中には「真理を知っている自分たちは、他の偽りの宗教団体とは違う」という、思い上がる気持ちが育っていきます。この思い上がりは、予想以上に危険なことだと僕は感じています。それは、エホバの証人自身を賛美するようになって、エホバの栄光が、その下に落ちてしまうからです。

 もし兄弟・姉妹の信仰において、自分がキリスト教世界よりも勝っているという信仰があれば、すぐに捨ててほしいと思います。だれが一番なのかという論争ほど、イエスをがっかりさせるものはないと思います。ただ、慎みをもって神と共に歩んでいけたらよいのではないですか。エホバの証人が一番でなければならないのでしょうか。

キリスト教世界という言葉は、使わないように提案します

 僕は、ものみの塔教会に、キリスト教世界という言葉を、使わないように提案します。他のキリスト教の中身を何一つ提示せずに、決め付けてだけかかるならば、偏見の目を育てるだけだからです。また、そのように決め付ければ、他のキリスト教の人から、恨まれたり、責められたりするだけだからです。

 他のキリスト教の教会が、もし聖書と調和しない教義を持ち続けていると考えるならば、大いなるバビロンと一蹴しないで、対話し続けていくほうが賢明だと思います。その中で、自分たちの教義のおかしな部分についても気づくことができると思います。自分たちが正しい、自分たちが立派といわないで、謙虚に、真理を探求をしていったらいいんじゃないでしょうか。



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