「油を注がれる」とは何を意味しているか

 現在のものみの塔協会の見解は、クリスチャンの中には、「油注がれた者」と「油注がれていない者」の二種類のグループが存在しているという見解です。けれども、僕は真っ向からこの見解を否定したいと思います。

油注がれた者とは、第一義的にはイエス・キリストのこと

 油注がれた者というのは、みなさんが知っているのように、キリストあるいはメシアという意味です。つまり、僕たちエホバの証人は油注がれた者という言葉で、統治体を思い浮かべますけれど、第一義的には、イエス・キリストのことを指しています。

 たとえば、ダビデは油注がれて王になりました。イエスも神から油を注がれて、キリストと呼ばれました。預言のなかでくることになっていたメシア、キリストとは、イエスのことだったのです。

「だが,あなた方は,わたしのことをだれであると言いますか」。ペテロが答えて言った,「あなたはキリストです」
(マルコ8:29)

 油注がれた者という称号を持っているのは、イエスです。

クリスチャンは油を注がれる

 驚くことですが、聖書の中で、神がクリスチャンに油を注いだという表現がでてくるのはたった一回だけです。コリント第二の手紙の中だけです。あまりにもものみの塔協会が強調するので、もっといっぱいあるかなぁと思ったら、実はたったの一回です。知っていましたか。

しかし,あなた方とわたしたちがキリストに属することを保証してくださる方,そしてわたしたちに油をそそいでくださった方は神です。[神]はまたわたしたちにご自分の証印を押し,来たるべきものの印,つまり霊をわたしたちの心の中に与えてくださったのです。
(コリント第二1:21-22)

 しかもこの箇所は、単にパウロが、イエスに信仰を働かせる人について語っている箇所です。つまり、クリスチャンに関して語っているところです。つまり、聖書に一回だけ登場する「わたしたちに油を注いでくださった」という表現は、クリスチャンに関してて語られているんです。知っていましたか。

油とは神の霊による是認のこと

 ヘブライ語聖書では油とは文字通りの油のことでした。目に見えるものであって、たとえばサムエルは、実際の油を注いで、サウルを王に任命しました。

 ギリシャ語聖書では、油を注がれるというのは、象徴的に使われていて、油とは神の霊による是認を指しています。つまり、油を注がれるということの意味は、「神の霊によって是認される」「神の霊によって神の子とみなされる」「神から愛される子とみなさえる」という内容を意味しています。「これは私の子、わたしの愛するものである」。

 ですから、油を注がれるということに関して、神秘的なパワーのようなものを感じ取る必要性はまったくないと僕は考えます。それは単に「神から愛される子として是認される」という意味だからです。

油を注がれるとは、神から愛される子として是認されるという意味

 聖書中では、霊を注がれるとか、聖霊によるバプテスマというのも、ほぼ同じことを意味すると考えてよいと思います。つまり、クリスチャンすべてが、霊を注がれ、聖霊によるバプテスマを受けています。特定の人だけというのではないです。

 ですから愛される子として「父よ」と言うことができます。罪のもとにあって、神から離れていましたが、聖霊を受けたことによって、今や「父よ」ということができます。迷子になっていましたが、今や元の家に帰ってきたのです。

では,あなた方は子なのですから,神はご自分のみ子の霊をわたしたちの心の中に送ってくださり,それが,「アバ,父よ!」と叫ぶのです。ですから,もはや奴隷ではなくて子です。そして,子であれば,神による相続人でもあります。
(ガラテア4:6-7)

 かつて神は「彼が手を出してまさに命の木からも[実を]取って食べ,定めのない時まで生きることのないように」といわれましたが、今や命を受け継ぐ神の子としての是認をイエス・キリストによって与えてくださいました。