聖書通読 マルコによる書9章

 今日は、聖書通読です。マルコ9章を読みます。以下のようなお話になっています。

  • エスは、ペテロとヤコブを山の中に連れて行く。そこで、イエスとエリヤとモーセが、共に語り合っている姿を見る。
  • エスは、すでにエリヤは来たと語る。
  • 口のきけない子供を治療する
  • エスは、自分が引き渡され殺されて、三日後によみがえることを語る
  • 誰が偉いかという弟子たちの議論。第一でありたいと思うなら、最後でなければならないと、イエスは教える

 いくつかの重要なたとえ話があるので、ピックアップして紹介したいと思います。

幼子を迎える人は、父を迎え入れることになる

 イエスは、形だけの崇拝について、忠告してくれています。「エホバよ、エホバよ」といっている人が、神の王国に入るのではなくって、父の意思を行う人が入ります。父の意思とはなんでしょうか。

 それは、次の言葉でわかります。

だれでも、わたしの名によってこのような幼子一人を迎える者は、わたしだけではなく、わたしを遣わした方をも迎えるのです。
(マルコ 9:37)

 要点はわかりますね。立場の弱いひとりを迎え入れることが、父を迎え入れることになるということですね。

 エホバの名によって語る人はたくさんいます。「輸血拒否することによって、エホバに忠誠を示すことができます。」「排斥制度は、エホバの愛ある取り決めです。」

 けれども、エホバの名によって、語るということが、神への愛ではないのです。弱い一人を助けること、これこそが、神への愛、神を迎え入れるということなのです。

信じる小さな一人のものをつまづかせるなら、死んだほうがまし

 キリストは、小さなひとりを侮ることに対して、強く強く警告します。そんなことをするやつは「死んだほうがまし」とまでいいます。

しかし,わたしに信仰を置くこれら小さな者の一人をつまずかせるのがだれであっても,その者にとっては,ろばの回すような臼石を首にかけられて,広い大海に沈められるほうが益になります。
(マルコ 9:42)

 いかに当時のイスラエルでは、小さなひとりがひどく扱われていたかということが、キリストのこの言葉から想像できる気がします。