神が清めたものを汚れていると呼んではならない

 エホバの律法は最初イスラエル人に与えられていたたものでした。エホバは最初イスラエル国民を選び、その子孫から人類の救い主を与えるという約束を、父祖であるアブラハムと結びました。

 イスラエル国民は救い主をその子孫から生み出すという意味で、祝福された民でした。しかし、神のご意志はイスラエル国民だけを救うことではなく、イエスを通してすべての国の人々を救うことでした。

 それでエホバはある時期までは、ある観点ではイスラエルの神でしたが、神の目的は、最初からすべての国民をイエスを通して救うことでしたから、もともとエホバはすべての人の神であったのです。

 イエスの死後、伝道活動はイスラエル国民だけではなく、すべての国民に広げられようとしていましたが、イエスの弟子であるペテロはこんな幻を与えられます。

 律法では食べると罪になっていた動物をほふって食べなさいという声が天から聞こえます。それでペテロは、自分はそのような汚れた食べ物を一度も食べたことがないと答えました。

 しかしイエスはペテロにこのように伝えます。

 あなたは、神が清めたものを汚れていると呼んではならない。
(新世界訳聖書 使途11章9節)

 この幻は、食べ物について書かれていますが、意味としては、モーセの律法を守っていない人を汚れていると呼んではならないということでした。つまり、イスラエル国民ではない他の国の人々も、神の民として差別したり区別したりしないようにということです。

 神が清めたものを汚れていると呼んではならないという言葉はエホバの証人にとってはとても思い意味を持っています。

 世界にはある国の人に対しては優しくするが、ある国の人に対しては厳しいという状況が多く見られます。

 またある話し方には上品だといいますが、ある話し方はふさわしくないといいます。

 見た目や住んでいる地域、国籍、話し方で、他の人を判断する傾向にあります。もちろんわたしたちエホバの証人もこの悪い影響力から完全に逃れているわけではありません。

 意識はしていないとしても、ある地域に対しては何かよい印象を無意識に持っているということは多々あるからです。

 たとえばヨーロッパやアメリカに対しては、美しくてよい印象を持っているけれど、東南アジアやアフリカには何か良くないイメージを持っているとかです。

 東京には良い印象を持っているけれど、その他の地域には何か良くない印象を持っているとかです。

 自分はそんなことはないという人でも、正直に吟味してみることは大切です。ファッションや家具はどうですか。他の地域の人をどんな観点で見る傾向がありますか。あのところに住んでいる人はこんな感じということをいつも思いますでしょうか。

 差別されている側の人にしかわからないものがあります。自分は正しいと思っている人は知らないうちにいつも差別をしているのではないでしょうか。僕はそんな経験をよくしてきました。そして僕もそうでした。

 「神が清めたものを汚れていると呼んではならない。」という言葉を心に留めておくことは、このような差別をしないという点でとても助けになっています。