救いは業によるのではありません。だれも誇ることのないためです

 僕たちエホバの証人は、このことをはっきりと信じています。それは「命の救いはエホバとイエスへの信仰による」ということです。

 でも、エホバの証人がこんな風に誤解をされることがあるかと思います。「神の律法があって、それを守っていれば救われる」という考えです。

 また、エホバの証人の兄弟・姉妹が、聖書の正確な知識をまだ理解することができていなくて、誤解を招く行動を行っているという場合もあるかもしれません。

 初期クリスチャン会衆内でも、業によって救われるという考えを持っていたクリスチャンが存在したようです。それで、会衆が、神の正確な知識に至るために、イエスの弟子であるパウロはこのようなことをいいます。

 まさにこの過分のご親切のもとに,あなた方は信仰によって救われているのです。そして,これはあなた方によるのではなく,神の賜物なのです。そうです,それは業によるのではありません。だれも誇ることのないためです。
(新世界訳聖書 エフェソス人への手紙2章8,9節)

 理由として「だれも誇ることのないためです」といっています。

 もし立派なことをして救われるのであれば、人は立派なことを自分のために求めることになります。その結果、仲間の上に自分を高めるという過ちにおちいってしまうかもしれません。

 「自分はこんなにがんばって宣教活動をしているのに、あなたはどうして怠けているの」という見方や「自分はこんなに清さを保っているのに、なぜあなたは保てないの」という見方を育ててしまうかもしれません。

 エホバは自分を高めるものを低められ、神との平安をその人から取り除けてしまわれます。エホバの前にあって謙遜な人には、平穏と祝福を注がれます。兄弟・姉妹の中にあって、自分を高めない人をエホバとイエスは愛されます。

 僕は宣教活動の動機は「神の言葉をたくさんの人に伝えたい」「優しい父親であるエホバと一緒に働きたい」というものであってほしいと思っています。宣教活動の多さによって自分を誇って、他の人を見下げたりするならば、エホバやイエスは悲しまれるのではないでしょうか。

 命の救いは神からの賜物であって、エホバの憐れみにかかっています。自分の行動によって自分を高めたとしても自分も人も救うことができません。自分の命の救いも人の命の救いも、ただエホバの憐れみにかかっているからです。(もちろんそれをいいわけにして、罪を犯してよいという意味ではありません)

 それで僕も、自分により頼む者としてではなく、神により頼むものとして奉仕をしていきたいと思っています。