すべてをかみの栄光のためにしなさい

 すべてを神の栄光のためにしなさいという言葉が聖書にはあります。

ですから,あなた方は,食べるにしても,飲むにしても,あるいはほかのどんなことをするにしても,すべての事を神の栄光のためにしなさい。
(新世界訳聖書 コリント第一10章31節)

 パウロがこの文脈で述べていたのは、偶像に捧げられたものを食べるかどうかに対する選択に対してでした。クリスチャン会衆では、偶像に捧げられたものを食べてよいかどうかという問題が当時ありました。

 クリスチャンは、どんなものを食べてもよいです。エホバによってすべての食物は清く、食べてよいものとされたからです。

 ですから、それがもともと偶像に捧げられたかどうかにかかわらず、すべての食物は清いものとなっています。クリスチャン自身が偶像自体に意味を見いださないからです。

 それでもパウロは、偶像に捧げられたものであるということを、食事を出す人が「これは偶像に捧げられたものだ」ということを告げた場合は、食べないようにという助言を与えています。それは、相手をつまずかせないようにするという配慮のためです。

 偶像に捧げられたものを食べた場合は、周囲の人の中でにあって、神の栄光となることができるでしょうか。むしろ、エホバ以外の神と和してもよいのだという印象を与えるのではないでしょうか。

 ですから、それ自体がエホバの目から見て清く、罪ではないことであったとしても、神の栄光とならず、他の神と和していると誤解されることについては、避けることが賢明であるといえます。

 たとえばサタンの世と和していると誤解を与えることについては、それ自体が罪ではないとはいえ、エホバへの祈りの中で導きを求めることが大切です。

 罪ではないことなら何でもしてよいという考え方ではなく、エホバに栄光をもたらす選択はどのようなものだろうかと考えてみます。(でも、その選択は、開拓奉仕ですと決め付けて、他の人を一つの観点に誘導しちゃいけません。聖書に訓練された良心によって、ひとりひとりが決定をしていくことが大切です。)