愛情を示すという点で窮屈になってはいませんか

 僕たちは何か嫌なことがあると、批判をしたり、恨み言を言ったり、憎しみを抱いたりする傾向があります。自分自身の判断で決定して、無視するのはその人のためだという風に、自分の義を愛してしまう傾向があります。

 自分の義を愛するとき、心はとても窮屈になる。自分の義のために、他の兄弟姉妹の好みや行動が、なにか間違ったもののように見えてくる。それで、いらだったり、不従順と決めてしまったり、常識がないとつぶやいてしまったりするときがあります。サタンは喜んで、エホバとイエスは悲しみます。

 霊的に弱くなっているときや、不安を抱えているとき、恐怖を感じているときは、特にそうだと思います。他の人の小さな点が、とても大きく見えてきます。それが、気にするほどのことではないとしても。

 それで、そんなときは、自分が愛情を示すという点で、窮屈になっていないかどうかを吟味してみることは助けになる。

あなた方はわたしたちの中で窮屈になっているのではなく,自分自身の優しい愛情の点で窮屈になっているのです。
(コリント第二6章12節)

 受けるより与えるほうが幸福とイエスが言われたことを思い出します。いつでも、愛のあるあいさつで、すべての兄弟・姉妹を迎えましょう。わけへだてなく、自分が今いやだと思っている人も、仲のよい人にも。バプテスマを受けて長年立っている人にも、バプテスマを受けたばかりの人にも、研究生の方にも。

 自分が親しい人だけと、仲良くしたいのであれば、世の人と同じなのではありませんか。自分の都合のよいときだけ愛を示すのであれば、それは世と何が変わるのでしょうか。

 頭ではわかっていても、難しい状況を抱えてどうしたらよいかがわからないと思っている人も多いと思います。そんなときは、いつでも祈って、エホバに導きを求めることです。人のせいにするのではなくって、エホバに祈りもとめて、まず自分が変わることができるように祈ってみましょう。

 僕がエホバの証人になって確信していることですが、ひとりの人の切実な祈りをエホバは間違いなく聞いてくださいます。自分自身が聖霊に導かれるようにして、会衆の中でそれを示すなら、会衆の他の兄弟姉妹も聖霊のよい影響を受けます。