神エホバの前にあって歓び楽しむのである

 エホバが望んでおられるは、エホバの前にあって僕たちが歓び楽しむことだ。エホバはご自分の民が、ご自分の定めた基準をこえて楽しむことを歓ばれない。

 エホバの前にあって、エホバと共に楽しむこと。これがエホバ神の望んでおられることだ。

また供与の犠牲を犠牲としてささげてその所でそれを食べ、あなたの神エホバの前にあって歓び楽しむのである。
(新世界訳聖書 申命記27章7節)

 僕たちは日本という環境に育ってきているから、宗教的な行いというものを禁欲的な修行に重ねてしまう傾向がある。

 欲を抑えて禁欲的で精神的に高いことを行っていれば、自分は優れているという感覚を抱いてしまいがちになる。自分の欲を捨てて、エホバへの奉仕に没頭することが、優れた生き方のように感じてきたら要注意だ。

 普通の食物にしても、霊的な食物にしても、エホバはそれを食べて歓ぶことを望んでおられる。ご自分の定めた義の基準の中で、喜び楽しむことを望んでおられる。

 もちろん、大食いなどの食べ過ぎや、酒によっばらって泥酔することは憎んでおられる。離婚も憎んでおられるし、結婚外のセックスも憎んでおられる。

 けれども、食べたり飲んだりして楽しむことや、夫婦で性関係を楽しむことは、エホバの義の基準の中で行われることなので、それによって楽しむことは、エホバが望んでおられることだ。

 禁欲的であることは、エホバが望んでおられることじゃない。エホバが、人間を創造したときに、園にあるほとんどの木の実を食べることを許され、妻を持って子どもを作ることを許された。けれども、善悪の木の実だけは食べちゃいけなかった。

 同じように僕たちも禁欲的であることがエホバの望んでいることではなくって、エホバが憎むことを避けて、義の基準の中で喜ぶということが、エホバの主権を立証するために必要になってくる。

 そうすることで罪を犯さなくても、義の基準の中で十分に喜べるんだということを示すことができる。

 物質の食物がだめで、霊的な食物がよいという価値観は聖書にはない。ただ、終わりの日であるので、パウロは、より霊的な事柄のほうを優先したほうがよいということはいった。もちろんイエスも、王国と神の義を第一にするようにといった。

 でも霊的な事柄というのは精神的な事柄ということを意味してはいない。霊的なことというのは、「精神的なこと」というよりも、「エホバが望まれること」という意味だ。

 日本人の価値観で聖書を眺めると物質的な欲望を否定しているんじゃないかと読める部分もあるけれど、聖書全体を読み通すとそんなことはない。

 パウロの手紙だけを読むと、そう誤解するかもしれないけれど、聖書全体を読むとそんな感じはしないと思う。