見なくても信じる者は幸いです

 あぁ、聖書はなんて良い本なんでしょう。さすが神の言葉が書かれた書物だ。こんな本は他にはないし、神の言葉が書かれていると信じるきっかけになったのも、聖書をきちんと読み始めてからだ。

 聖書にはイエスの愛が満ち溢れている。もちろんそれはエホバ神の愛を反映したものだ。だから、聖書はエホバとイエスの愛が満ち溢れている書物だ。

 イエスの弟子にはトマスと呼ばれる人がいる。イエスはトマスを愛していたし、トマスもイエスを愛していた。トマスは、イエスが死んだときに深く悲しんでいて、イエスに会いたいと思っていた。

 トマスがいないときに、イエスは弟子たちの前に現れたんだ。それで、弟子たちはイエスが復活したとことをトマスに話したんだ。でも、トマスは生き返ったイエスを見るまでは決して信じないといった。

 弟子たちを信用しないで、トマスはイエスは実際に見ないと信じないといった。イエスは信頼していたけれど、イエスの弟子の語る言葉は信用できなかった。

 イエスは、その8日後にトマスのもとにも現れた。トマスは、実際にイエスの手に開いた穴をさわって、わき腹にも触った、そして見て信じた。

 でもイエスは、優しくトマスを諭された。

エスは彼に言われた,「あなたはわたしを見たので信じたのですか。見なくても信じる者は幸いです」。
(新世界訳聖書 マタイによる書20章29節)

 「見なくても信じるものは幸いです」といった。聖書をエホバの証人の人と勉強し始めると、だれもが考えることになると思うのだけれど、イエスやエホバというのは目に見えない。

 目に見えるものだけを信じるような信仰を文化や生活の影響で強く持ってしまっていると、なかなか神の存在を受け入れることができなくて悩むと思う。

 それでも「見なくても信じる者は幸いです」という言葉をよく黙想して、信仰がよい実を結べば、神の存在を受け入れることができると思う。必要なことは、疑うことではなくって、まず信じて祈ったり、聖書の言葉を自分に当てはめてみることだと思う。

 知識だけで、頭でっかちになっちゃうと、どうしても、心でエホバを味わうことができなくなっちゃう。祈りによって神に近づくことができれば、どれほどエホバが善良な方であるかがわかると思う。