イエスはイスラエルの失われた羊を探す

 1世紀当時、イスラエル人のエホバに対する崇拝は、実質のあるものではなくて、見せかけだけのものになっていました。当時のひとつの勢力であったパリサイ人は、神を崇拝していると唱えていながら、人々を痛めつける人として、イエスから痛烈に批判を受けました。

 人々に見せつけるための神への崇拝はあっても、公正と憐れみを忘れた偽善的なものになってしまっていました。自分たちは正しいと主張しながらも、実質的には正しい崇拝を行ってはいませんでしたし、エホバがイエスを地上に使わしたときには、罪がないのに迫害して殺害しました。

 至った結果は、罪のない人に対する殺害です。生み出した実は、神と神の子を愛している人に対する偏見や迫害なのでした。イエスは神のご意志を行っていたにもかかわらず、神を崇拝していると主張する人たちに、罪に定められて殺されました。

 僕たちがパリサイ人のようになってしまわないように、ひとりひとりが気をつけることは本当に大切なことです。そうなってしまうはずがないと考えるのではなくて、「立っていると思っている人は、倒れてしまうことがないように注意しなさい」という聖書のアドバイスに従って、真剣に考慮する必要があります。

 「すべてのことを確かめなさい」という聖書のアドバイスに従って、自己吟味します。

 罪を犯していない兄弟・姉妹が、つまづいてエホバから離れていってしまうのは本当に悲しいことです。エホバを悲しませないようにしたいです。

 エホバはイエスを地上に使わすときに、イエスに対しては「イスラエルの家の失われた羊」の元へ行くようにといわれました。

わたしは,イスラエルの家の失われた羊のほかはだれのところにも遣わされませんでした。
(新世界訳聖書 マタイによる書15章24節)

 新しい崇拝者というよりは、エホバを崇拝している人たちで、イスラエルからは失われてしまった人たちのことです。真の崇拝者たちが、当時の勢力によって、虐げられていたことをエホバはご存知でした。

 それで、エホバはイエスを、まずイスラエルの失われた羊のもとにお遣わしになりました。これは、とても愛あることだったのではないでしょうか。エホバが、失われた羊に対しても、関心を抱いておられたということは、とてもうれしいことです。