エホバは犠牲ではなく愛ある親切を望んだ

 エホバ神はどんなことを喜ばれると思われますか。たとえば、一つの答えとして、エホバは宣教奉仕による犠牲を喜ばれると答えますか。宣べ伝えることによる、唇の実による捧げものを喜ばれると思いますか。

 何の躊躇もなく「はい」と答えますか。実はこの答えは、「はい」でもありますし「いいえ」でもあります。どういうことでしょうか。

 聖書にはこのように書かれているからです。

わたしが喜びとしたのは愛ある親切であって,犠牲ではなかったからである。また,全焼燔の捧げ物より,むしろ神を知ることであった。
(新世界訳聖書 箴言6章6節)

 「わたし」と書かれているのはエホバ神のことです。愛ある親切が喜びであって、犠牲ではない。捧げものを求めているのではなくて、神を知ることを求めていたといっておられます。

 エホバは聖書の中で、ご自分の崇拝者たちに確かに犠牲を求めておられます。けれども、エホバは犠牲自体を求めているのではなくって、犠牲によって表現される、エホバを愛する気持ちやエホバを良く知っているという気持ちを求めておられるということです。

 公正や義や憐れみや愛を欠いた犠牲は、エホバはぜんぜん喜ばれないということです。信仰を行動によって示すということが求められるので、行動そのものを求めることは、エホバの観点からするとまったく意味のないものです。

 愛という感情が伴わない犠牲を、エホバは喜ばれることはないからです。愛しているならば、愛していることを示してほしいということです。

 僕たちは友人や妻や恋人にプレゼントをすることで、愛の気持ちを表現することがありますね。神への愛はそれに良く似ています。僕たちは、エホバからたくさんのものを受けとって、その愛について知っています。それで、エホバへの愛の表明として、生活の一部をエホバに犠牲として捧げます。

 「そのおきてを守り行うこと、これがすなわち神への愛です。けれども、それは重荷ではありません。」

 金銭的に大きな犠牲を求めておられるわけではありませんし、重荷になるほど大きな犠牲を求めてはおられません。エホバは愛ある方だからです。その犠牲は軽くてさわやかなものです。だれかに強要されたり、誘導されたり、コントロールされたりして、捧げる犠牲をエホバは望まないのです。自発的な愛の気持ちによる犠牲を求めておられます。

 自分の奉仕について吟味してみるとどうでしょうか。それは重荷となっていますか、それともさわやかな軽い犠牲となっていますか。エホバへの愛の表れになっていますか、それとも、会衆の兄弟・姉妹の視線や期待をたくさん背負ってしまっているでしょうか。

 立場が上の人に良く見られたいですか。特別な立場を得たいと思ったり、特別な立場を失わないたくないということが宣教奉仕の動機となっていませんか。エホバへの愛が動機となっていますか。