イエス・キリストの人物像 第15回 イエスの人柄「神の言葉を尊重する」

 イエス・キリストは、ヨハネ福音書では、比ゆ的に「神の言葉」と呼ばれています。地上にこられたときも、自分の言葉を話していていたのではなくて、いつでも神の言葉を語っていました。

 イエスは、ヘブライ語聖書についても、熟知していました。神が人間に与えた聖書の言葉をよく調べておられ、聖書から論じました。

 また、聖書に書かれた預言については、確信を抱いていました。「聖書の預言の言葉が成就しないよりは、天と地が過ぎ去れるほうが先です」といって、聖書に書かれた全ての預言が成就して、終わりを迎えるということを知っておられました。

 イエスは、聖書の中には、ご自分について書かれた預言の箇所があることも、ご存知でした。ベツレヘムで生まれること、ユダの家系であること、人々の痛みを担うこと、罪を背負うこと、子ロバに乗ってエルサレムに入場することなどです。

 いつでもご自分について書かれた聖書の言葉に注意を払っておられ、父であるエホバの言葉を尊重していることを示しました。

エスは神の言葉を尊重する。神の言葉である聖書全体を大切にした。

 僕たちもこれをお手本とすることができます。いつでも聖書から論じたり、話をしたりすることができます。聖書を理解できて、ひとりひとりが聖書を導きとできるようになるのがよいと思います。ぜひ長老や巡回監督も、兄弟・姉妹が聖書を導きとできるように、励ましてあげてほしいと思います。

 一方パリサイ人たちは、神の言葉をどんな風に扱っていたでしょうか。パリサイ人は、神の言葉を自分では行っていると思っていましたが、イエスに痛烈に非難されます。

 イエスはこんな指摘をします。「あなた方が、人間の伝統によって、神の言葉を無にしているのはどうしてですか」という質問です。

 パリサイ人たちは、自分たちの伝統を作り上げることによって、尊重されなければならない神の言葉を無意味なものにしてしまっていました。自分たちの作った細かなルールを守らせることで、民にたいして従順を求めていたのです。

 そこには公正と憐れみが存在していませんでした。そのルールを守らなかったイエスを、パリサイ人たちは殺そうと模索しました。

パリサイ人は、自分の伝統のために、神の言葉を無意味なものにしていた。

 僕たちは、イエスの手本にならっているでしょうか。それともパリサイ人の手本にならっているでしょうか。どちらでしょうか。

 では一つの聖書の言葉について考えてみてください。「子らは神からの相続物である」という言葉です。ヘブライ語聖書を読むと、子どもが生まれることは祝福と結び付けられて語られているということが、よくわかると思います。

 けれども、会衆にはこれとまったく正反対の考え方が存在しているということはないでしょうか。たとえば、子どもを作ることに関して、嫌悪感を抱かせたり、子どもを持つ兄弟・姉妹を、そうではない兄弟・姉妹に対して、不利に扱っているということはありませんか。

 霊的な子たちを生み出すことは祝福で、結婚して子どもをもうけることは否定的なイメージで語られていたりはしませんか。先延ばしにすることがよいような噂話が存在していませんか。どちらも祝福というのが、神の見方なのではないでしょうか。

 「子らは神からの相続物である」という聖書の言葉を、自分たちの伝統に従って、無意味なものにはしていませんか。

 弟子たちが、イエスから子どもを遠ざけようとしたときでも、イエスは子どもたちに近づいて祝福しました。イエスは子どもたちがないがしろにされている時代にあって、「子らは神からの相続物である」という神の見方を知っていたのだと思います。

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