イエス・キリストの人物像 第14回 イエスの人柄「神を愛する」

 キリスト教といえば、特徴的なのは「神への愛」と「隣人への愛」ですね。僕たち日本人にとっては、人へ優しくするというのは、イメージできますけれど、神を愛するってなかなかイメージできないですよね。

 「見えないし、触れることもできないものを愛するってどういうことだろう。」と思うかもしれませんね。

 イエス・キリストは、地上にいる間は人間として生活していましたが、神との関係はとても親密でした。いつも神のご意志に注意を払っていましたし、祈りを行うことで、父エホバと親しくコミュニケーションを行っていました。

 弟子たちに、最大のおきては何ですかと聞かれたときは、それは「神への愛」だと答えました。聖書の中に書かれたおきての中で、一番最大のものは、神への愛です。

 多くの人は神を愛するという言葉にこんな誤解を抱きます。「神を大事にするけれど、そのせいで人が犠牲になっている」という非難です。でもそれは、違います。

 神への愛というのは、たとえば、もっとも小さな幼子に対しても愛を示すことです。「神よ愛しています」というだけの人は、神を愛していません。神を愛するというのは、たとえば「弱い立場にある仲間を思いやること」です。仲間を愛せない人は、まだ神を愛するようになっていません。

 神を愛しているといいながら、仲間の悪口や陰口を言っていたとしたら、その人は神を愛してはいません。まだ、神の愛を知っていません。神を愛しているといいながら、子どもたちを傷つけるとしたら、その人は神を愛してはいません。まだ、神の愛を知っていません。

 神を愛しているといいながら、仲間の兄弟・姉妹を無視し続けたり、恨みを抱き続けるとしたら、その人は、神を愛していません。神の愛を知った人は、仲間も愛するからです。神の公正について理解した人は、物事を公正に扱います。

 イエスは、人に対して愛を示し続けましたが、それは神を愛していたからです。神を愛する人は、人を愛します。人を愛さない人は、神を知っていません。

 そうです、神への愛と人への愛はきりはずして、別々に分離させることはできません。だから、神を愛して、人を愛さないということはできません。

 イエスは、地上にこられた間、いつも神のご意志について、配慮を払っておられました。宣教期間中、いつでも、自分の考えよりは、神の考えがなされるように行動しておられました。「私が父を愛していることを世が知るために、わたしは父が教えてくださったとおりに行っているのです」といって、いつでも、父を愛しているということがみんなにわかるようにしました。

 イエスはいつでも神の考えを語りました。自分の言葉ではなくて、神の言葉を語りました。そのおきては軽くさわやかなことを知っていました。

エスは、神の考えを語った。軽くて、さわやかなもの。

 対照的に、パリサイ人は、律法のおきてだけでなく、自分たちの人間の伝統に従って、自分たちのおきて教えていました。パリサイ人は、神を愛しているといいながら、自分たちが作成した細かなルールで民を縛り、そこから逸脱した人を悪く扱っていました。

パリサイ人は、自分たちの伝統に従って、細かなルールを作成した。

 彼らは、逸脱する人を受け入れず、協議をしてイエスを殺そうとまでしました。

 パリサイ人のような態度を持つのではなくて、いつでも神の言葉である聖書から話をするようにして、仲間を励ますことができれば、とてもさわやかになると思います。

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