正直さが犠牲になっていませんか

 正直であるということは、とてもすがすがしくて、さわやかな性格のひとつだと思う。正直であることは、格好がいいことだし、男前でもあると思う。

 エホバの証人として生活していて思うのは、やっぱり正直さが犠牲になりがちだなぁということだ。周りを喜ばせることばかりを語りがちになってしまったりする。

 エホバは率直で、ご自分がなさってきたことをそのまま語る方だ。ヨシュア記には、イスラエル人がカナン人を滅びに陥れる場面がでてきる。その場面だけを見ると大量虐殺で残虐な行為のように見える。それで、聖書を誤解する人たちは、この部分だけを取り上げてひどい神だといったりする。

 でも神は正直で公正な方なので、義なる者のために、罪を裁くことを差し控えたりはされませんでした。

 ご自分の選んだ王ダビデが、罪を犯したときも聖書にそのまま記載しているし、ダビデが罪から悔い改めたことを記載している。このおかげで、罪を犯しても、悔い改める人をエホバは尊重されるということが理解できる。

 だから神の霊というのは正直であるようにと導く。反対に世の霊は、失敗をしてもそれを正当化するように働く。

神の霊は、正直であるように働く。
世の霊は、失敗を正当化するように働く。

 この対比を知っていれば、実際にある記述が、神の霊に導かれているか、世の霊に導かれているかを判断することができる。

 世の歴史家は、自分たちの時代の失敗を、成功に塗り替えて美談で染めてしまう傾向があるようだ。それとは対照的に、聖書は率直で、とても正直だ。それで、ぜひともエホバの証人もこのようでありたいと僕は思う。エホバの証人の歴史を美談で固めたり、失敗を認めなかったりするのは、エホバの賛美にならない。

 もしそれをしたら、僕たちが普段真似しないように心がけている世の歴史家と同じになっちゃうんじゃないかな。エホバのみ名のために、正直でありたいと思いませんか。

 お母さんたちも、男の子をまず責めるのではなくて、話してくれたという、正直さや率直さをまず認めて、誉めてあげてほしいと思います。

 男の子は不正直であることを嫌うし、もし話しをしてもいつも批判されると思えば、心を潜めてしまうからです。その男の子の率直さをきちんと評価してあげなければ、その子は、やがて本音と建前を使い分けることになります。

 成長していくにつれて、うまく立ち回ることを覚えますが、エホバやイエスの正直さの価値については、知らないままです。

 エホバのために、正直であることができるかな。君自身の良心のためでもあるよ。君の心がふさがって辛い思いをしているのを、取り除くためでもあるよ。周囲から非難されるとしても、エホバのためならきっと忍耐できると思うよ。

 正直でありながら、エホバからは離れないということは挑戦になると思うけれど、やる価値があると思うよ。最初は苦労があるかもしれないけれど、だんだんと慣れてくると思うよ。

 聖霊を祈り求めて良い決定をしていけると良いね。