エホバは殺す方、生かす方
仏教のひとつの教えでは、ただ南無阿弥陀仏と唱えれば、悪いことをした人でさえも極楽浄土に行くことができます。多くの人にとってとても心持ちの良い考え方だと思います。
罪を犯しても、罪を犯さなくても万人が救われるという考え方は人気があります。でもこれって、実は変な考えじゃないでしょうか。実際僕たちは、不公平に非常にいらだつからです。
たとえば、自分の子どもがひどい暴力を受けたとしましょう。そして、その犯人はうまく逃げおおして、捕まりませんでした。その犯人は、他のだれもそのことを知らないで平和に生活しています。実際のもしそのようなことがあれば、怒らないのでしょうか。
「自分の子どもはいなくなっちゃたけれど、その犯人は平和にくらしているね。うれしい。うれしい」とでもいうのでしょうか。公正を求めないのですか。罪を犯していない人が死に、罪を犯した人が生きるとすれば、それを不公正な世の中と思うのではないでしょうか。
エホバは愛があるので、すべての人を救うはずだとは思わないでください。そうではなくて、愛があるので、罪を犯さない人には愛ある仕方で、罪を犯した人にはそれに応じた仕方で報います。エホバの愛は忠節な愛だからです。またエホバは主権者であられ、公正の天秤をつりあわせるように、行動されます。
今はサタンの世ですので、罪のない人が死に、罪のある人が生きる不公正な世の中ですが、エホバはイエスをもちいて、この状態を終わらせようとしてくれています。
すべての人を死に投げ入れてきたのは悪魔サタンです。エホバは義なる者を殺すということは決してなく、エホバによって滅ぼされたとすれば、その人物や国民が先にエホバに対して滅ぼされるに値する罪を犯しています。
聖書の教えは一貫して、罪に対応するのは死であり、義に対応するのは命です。エホバは命と死を裁く主権者であられます。
エホバは殺す方,また命を保たせる方,
シェオルに下らせる方で,また上らせます。
(新世界訳聖書サムエル記第一2章6節)
エホバはすべての人が命を得ることを望んでおられ、邪悪な者の死でさえも願っておられません。罪から立ち返り、生きることを望んでおられます。
エホバは、地を破滅させてきたものたちを破滅させるといっておられます。けれども、神の言葉を聴いてイエスに信仰を働かせる人たちには、そのときでさえ安全に守られます。ですから、僕たちは、エホバのご意志を行うために、できれば世界中のすべての人がよいたよりを聞くことができるように、伝道活動を行っています。
少数の神の崇拝者以外を滅ぼす神はひどいといっている場合ではなくって、命を望んでいるすべての人に良いたよりを宣べ伝えるべきときだと思います。できればすべての人が聞いて、命を望んでいる人が命を得ることができればと思います。