律法主義について

 動機は愛でも、規則をたくさんもうけて律法主義に転じてしまったら、できあがったものは、聖書とは何の関係もないものになってしまう。仲間をサタンから守りたいということが動機であっても、ひとつひとつのことに対して、規則を設けてしまうと、それを集約してできあがったものは、聖書の教えとまったく反対のものになってしまう。

 これが1世紀の時代に、パリサイ人が陥った罠です。パリサイ人は、モーセの律法以上の、多くの律法を設けて、それを守り、また民に守らせることをよしとしていました。神の言葉ではなくて、自らが作り上げた律法を愛していました。神に従っていると自認しながら、実質としては、偽りの崇拝に傾いていました。

 「ものみの塔」の中では、聖書というのは規則集のようなものではないとはっきりと書かれています。この点においては、統治体ははっきりとした認識をもっています。ですから、長老や巡回監督が間違った推論をしそうなときに、だれかとめてあげてください。どうか愛する兄弟・姉妹なので、裸の王様でいさせてあげないでください。

 「神の言葉」と「人の言葉」がぶつかるときは、神の言葉を選択しましょう。しばらくの間、何かを失うとしてもです。勇気を祈り求めましょう。

 長老はエホバではないし、巡回監督もエホバではありません。もちろん統治体もエホバではありません。長老の言葉は、エホバの言葉ではないし、巡回監督の言葉は、エホバの言葉ではありません。もちろん統治体の言葉も、エホバの言葉ではありません。

 聖書に書かれた言葉、それが神の言葉です。

 「ありがたいお言葉を頂戴した」という風に、ベテルからの講演者や巡回監督をあがめてはいけません。「エネルギーをいただける」と、ギレアデを卒業した夫婦をたてまつってはいけません。イエス・キリストを通して、神を崇拝しましょう。みんなそのための奉仕者だからです。

 統治体を高い場所に置くのはやめましょう。統治体はそのような待遇を望んでいません。なぜならクリスチャン会衆に仕える、奴隷だからです。