密室主義

 エホバの言葉というのは、とってもオープン。なんでというなら、聖書に書いてあるからだ。すべての人が接することができるし、良いことも悪いことも全部書いてある。聖書の言葉は、明示的で、だれに対しても開かれている。

 僕が認識している問題の発端のひとつは、密室で行われる会話にある。それはたとえば巡回監督が行う長老と僕の集まりなんかで実際に起こる確率は高いと思う。

 そこで行われるのは聖書にも、ものみの塔にも、目ざめよにも書かれていない事柄が「組織の支持」という錦の御旗のもとに、長老や奉仕の僕に伝えられる。独特のルールがいびつな形を持って、持ち込まれる場所だから、よく注意してほしいと思います。

 でもね、長老たち奉仕の僕の兄弟たち、もし巡回監督が、聖書にも目ざめよにもものみの塔にも根拠のないことを話すとすれば、それについてきっちり自分の頭で考えなくちゃいけないよ。

 少なくとも聖書にもものみの塔にも目ざめよにも書いてないとすれば、ベテルの兄弟か巡回監督が間違っているんだから。だから、間違いを発見したら教えてあげて、協議するということは大切なことだと思う。巡回監督は接すると、ただ緊張するだけの人ですか、それとも親しくできる僕たちの兄弟のひとりですか。

 巡回監督が上という価値観はないのだから、会衆の長老は、会衆の問題や状況を巡回監督と率直に話し合うということが必要だと思う。だって巡回監督は会衆の様子がわからないんだから、それを伝えることができるのは、会衆のお世話をしている長老しかいないんだから。

 僕たちの一つの誤解は、エホバの証人は、「統治体を頂点とするピラミッド型の組織」だと思っていることなんだ。そうではなくて、聖書的に考えれば、「会衆を監督するという役割」と「世界的な状況を監督する役割」というのは、対等な関係。それは働きの違いであって、地位や権力の違いじゃない。

 パウロは諸国民に宣べ伝えるという点で、神からの選びを受けていたけれど、地位や権力において、他の兄弟よりも勝っているとは考えなかったよね。むしろ、自分を奴隷として引いていったよね。だから同じように、統治体が地位や権力の点で上というのは、誤解なんだ。

 統治体を仰ぎ見て「光が下ってくる。ありがたやー」という価値観はもう終わりにしよう。統治体は「イエスを通してエホバへの崇拝に導く」ことのために、僕たちと共に奉仕しています。上に見るのではなくて、横に眺めるのがよいと思います。天にいるのはエホバとイエスだからね。

 巡回監督が一方的に厳しいとしたら、巡回監督、ご自分のお仕事をきちんと認識してほしいと思います。エホバがすべての人の祈りを聞かれるように、長老や奉仕の僕の兄弟たちに、耳を傾けてみるなら、とてもよいひと時になると思います。