兄弟たち,わたしはまだ,自分がそれをとらえたとは考えていません

 パウロは聖書の中で復活の種類は一種類ではないとういことを、ときどき語ります。まとめて議論されている部分はありませんが、パウロは復活には複数の種類があると考えているようです。

 聖書には復活に対していくつかの表現があって、どれがどのように関連づいているかを見つけるのは難しいのですが、とにかくイエスにしろパウロにしろ複数の種類の復活について語っているというのは事実です。

 イエスは「命の復活と裁きの復活」について語っているところがあります(ヨハネ5章29節)。パウロは「義者の復活と不義者の復活」について語っています(使途24章15節)。またパウロは復活には時間的な順番があるということもいっています。「まず初穂、臨在の間にキリストに属する人、そして終わり(の人?)」(コリント第一15章23節)。また「早い復活」があるということも認識しているようです(フィリピ3章11節)。

 パウロ自身は早い復活に到達しようと奮闘しています。自分が目指しているというよりは、キリストがパウロをとらえてくれたので、パウロのほうもそれに答えようと奮闘しているようです。

 でもパウロは兄弟たちにこういいます。

兄弟たち,わたしはまだ,自分が[それを]とらえたとは考えていません。
(新世界訳聖書 フィリピ人への手紙3章13節)

 自分がそれをとらえたとは考えていませんとパウロはいいます。これは「自分がそれをとらえたと確信している」と主張する人と対象的です。

 パウロは「自分が早い復活に値する者であることを確信しています」とは考えていません。反対にパウロは「早い復活に値する者であることを確信していません」といった後に、けれども「それを望むので、奮闘しています」と述べています。

 現代においてエホバの証人の中にも、パウロと同じように「早い復活」を望んでいる兄弟・姉妹がいます。これ自体はパウロにならってよいことだと思いますが、自分がそうだと確信するということは、できないんじゃないかと思います。神の選びによるので、自己証明はできないんじゃないかと考えます。