なんだかストレスが溜まってきたので今日は書きなぐってみる
どうしてあの兄弟は善いとか、あの兄弟は悪いとか、すぐにそういう判断をするのでしょうか。それもほんの小さなことで、自分と性格や方法が合わないということだけで、能力が足りないとか、何かに向いてないとか、ミスが多いとかそういう見方をするんでしょうか。
どうしてあの兄弟は模範的ですねといったり、あの兄弟はちょっと模範的ではないといったりするのでしょうか。どうして自分の目の中のわらを取り除かないで、人の様子ばかりを気にしたりするんでしょう。
奉仕のときもそうだ。家の人にあって、話しを聴いてもらえると善い人にであったという。聞いてもらえなかったら良くない人という。ボケが入っている老人を見ると、あの人はボケが入っているという。話しができない人は神の救いに値しないのでしょうか。
善い人とか悪い人とか、そういう風に判断することが本当に多くて困る。自分のタイプでなかったり、やり方が好みでなかったりすれば、それは違うというし、軽蔑をして和から離そうとする。寛容をといていながら、どうして寛容ではないのでしょうか。罪のない人を罪のある人のように軽蔑したりするのでしょうか。
どうして宣教奉仕にたくさんでていて、公開講演をしている兄弟を見ると、霊的な兄弟と言うのでしょうか。どうして、外面を見て、その人は霊的な兄弟というのでしょうか。また立場を持っている兄弟を、霊的な兄弟という。立場を持っていない兄弟をあまり霊的でない兄弟としてみる。
イエス・キリストは「善いのはただひとり神だけです」といったのに、どうして聖書を学んでいる人が、あの人は善いとか、あの人はよくないとかいうのでしょう。「自分の好きな人にだけ挨拶したからといって、世の人と何が変わるのでしょうか」とイエスがいったのに、どうしてえり好みして人を判断するのでしょうか。
神の支配に服しなさい、神を友としなさいといいながら、どうして人の目ばかりを自分の行動の判断に利用するのでしょうか。自分のことを善い人といったり、人のことを悪いという人が、善い人なのではなくて、神だけが善いという人が善い人なのではないでしょうか。
僕の観察では、特権と呼ばれるものを持っている人は、いつでも人のあら捜しをしているように見えます。自分を正しいと思っている人は、他人に対して非常に不寛容です。そうではなくって、神が正しいのではありませんか。
「神は貧しい人を選んで富ませた」と書いてあるのに、不遇な境遇に置かれた人に対しては、距離を置こうとするのでしょうか。立派な家を持つ人に対しては、すすんで伝道するに、貧しい人たちに対しては汚いと心の中で思って、距離を置こうとするのでしょうか。
イエスは「内側を清めることによって、外側を清めなさい」といったのに、どうして外面をまず清めさせようとするのでしょうか。それはイエスが白く塗った壁よといったパリサイ人の特徴でもあったのに。
どうして正直であろうとする人たちを排除しようとするのでしょうか。正直でありなさいといいながら、どうして自分たちの悪いことに関しては隠し続けるのでしょうか。知らないならともかく、知った後にも。自分のことを善いという人たちは、本当にうそつきが多い。
僕たちは罪があって正しくはない。神は正しい方。至高者である神だけが正しい方。けれども、エホバは、イエスの贖いへの信仰を通して、僕たちを義なる者と宣言してくださる方。
イエスに信仰を働かせて、罪から離れているなら、それで「よし。それで立派だ」といえばいいのに。あの兄弟とあの兄弟を比較することもないし、自分と他の兄弟を比較することもない。「神の目から見てみんな立派」とそういえばいいだけなのに。
どうして髪の毛が耳にかかっているだけであの兄弟は立派ではないといったり、奉仕時間が少ないからそれほど立派ではないといったりするのか。せっかくパウロが「業によって誇ることがないためです。」といっているのに、業に対して賞賛を与えようとするんだろう。せっかくの神の言葉なのに。
イエスに信仰を働かせていて、罪から離れているなら「それで立派」とどうしていえないんだろう。肯定してあげればいいじゃないかと思う。命を受け継ぐ資格があるのだから、立派ではないでしょうか。どうしてあら捜しにいそしんじゃうんでしょうか。
「そのままでいい」とどうしていってあげれないんでしょうか。君は目標をもたなければいけないとか、進歩しなければならないとか、特権をすすんでとらえるようにとか、君には助言が必要ですとか、どうしてすぐにそういうことをいっちゃうんでしょう。義務を人の上にのせようとする。
イエスは「わたしのくびきは軽いのです」といわれました。それなのに神の言葉を無視して、重い荷物を人の肩に乗せようとするのでしょうか。さらに悪いことに「重い荷物を、エホバが支えてくださるから、これは軽い荷物です」といって載せるのですか。
一度みんな荷物を降ろさないといけないよ。荷物を降ろすことは、軽蔑が待っているけれど、それでいいと思う。人から軽蔑されることは怖いことだと思っているからみんなできない。でも人からの軽蔑は大丈夫なんだ。
聖書にはこんなふうにある。「人から報いをうけるならば、もう人からそれを得ているので、神からはもらえない」。では人から軽蔑をもらえば、神から得られるもの大きいのはないでしょうか。
人からの軽蔑や見下されることを怖れて行動しないよりは、勇気を出して、人から軽蔑されても、神からの誉れを受けたほうがいいんじゃないでしょうか。
みんなきっと勇気が少し足りないんだ。人への怖れに対して過度に臆病なんだ。でも僕はいいたい。「至高者への恐れ」これが大切なんだ。神は「至高者」だ。天の天におられる方。この至高者に対して、僕たちは行動しなきゃならないんだ。
とっても高いところにおられるエホバの視点になって自分を眺めてごらん。エホバは高い高い位置におられるから、エホバの足の下に見えるはずだ。こうして視点を移すんだ。僕たちは、きっと右や左にいる兄弟・姉妹たちの視線ばかりを気にしているでしょう。人への怖れが自分を支配しているね。これは不健康だ。
だから、至高者の位置に視点を移すんだ。エホバがご覧になるように、自分を見てみよう。雲ひとつない、青空の上を見る。エホバは聖なる方。澄み切った方。正直な方。善い方。君のことを正しいといってくれる方。祈りを聞いてくれる方。悪いところがひとつもない方。こうような至高者との関係を大切にしたいと思う。