月200時間労働

 エホバの証人で問題となっていると思われることを、少し書いてみます。僕が思う一つの問題点は、兄弟たちの労働時間の長さです。特に「開拓奉仕 + 奉仕の僕」あるいは「開拓奉仕 + 長老」の忙しさは、爆発的なものです。

 姉妹たちには、この忙しさは見えません。なんでなら、兄弟たちは隠そうとするようにするし、隠すように薦められているから。「忙しくても、忙しいようなそぶりをしないように」とものみの塔協会から薦められているから。

 だから、兄弟たちは、僕が聞いた限りではほうとうに全員が、忙しいとは答えない。100%答えない。それで、この問題については語られることがないし、姉妹たちも知らない。「あらー、がんばってくれているわね。忙しそうにしているわね」くらいにしかとらえてくれない。

 また兄弟たちは忙しい自分を徳としているような側面がある。「こんなに貢献しているぞー」という感じで。体力があって、知力があって、活動力があって、ミスが少なく、作業をこなせる兄弟はそれができる。でも、そうじゃない兄弟はできない。

 それのどこが問題なのといういうかもしれません。問題は「体力があって、知力があって、活動力があって、ミスが少なく、作業をこなせる能力」と「立場」が結びついているということだ。

 もうひとつは「奉仕の僕」という立場が「長老」という立場への唯一の道となっていること。「長老」に出世するためには、長老のいうことをそつなくこなし、なんでも引き受け、話をあわせというなんだか、会社の上司と部下というような関係が発生している。「長老」は出世の道を閉ざすという権限を持ってしまっている。

 それともうひとつの問題は「立場」とできる仕事が結びついているということ。たとえば「奉仕の僕」であればこういう仕事ができる、「長老」であればこういう仕事ができるというふうに。

 僕は長老が不必要とはぜんぜんいいません。長老の任命については、聖書に書かれているし、必要です。けれども現状は、とても誘惑されやすい仕組みであると思います。兄弟たちは、人に役に立つ仕事を求めるのじゃなくって、立場を求めちゃう。人に役立つ仕事じゃなくって、誉れのある立場を求めてしまう。神からのというよりは、むしろ人からの。

 仕事仲間の間で、実際の作業をする人と、作業を監督する人の間に上下関係はない。実際に作業をする人は、監督の仕事をする人を必要としている。全体の工程が見えないと、部分的な作業がうまくいかないということを知っているからだ。作業をする人と監督との間には、役割の分担がある。絶対的な支配関係があるわけじゃない。

 会衆の中には、さまざまな仕事がある。それで実際に仕事をする人と、監督の作業をする人の間には役割分担がある。ほんとうはただそれだけのはずなんだけれどね。それなのに、多くの兄弟は、そこに上下関係や支配関係を見てしまう。また命令系統だと思ってしまう。

 みんな神のもとで働く兄弟・姉妹なのですから、上下関係はなく、そこにあるのは役割分担だけのはず。

 ひとりの負担を大きくするのはあんまりよくないと思う。だから、絶対的な仕事量を削減することと、仕事の分担が可能なようにして、ひとりの仕事量を減らすことが必要だと思っている。