奉仕の僕は長老になるための準備的な立場という誤った認識

 まず、統治体とものみの塔協会が完全に、見誤っているのは、奉仕の僕が、長老になるための準備的な立場として存在しているという認識です。

 長老よりも立場が低くて、長老たちの雑用をするような係として、奉仕の僕が存在しているという状況があります。また、奉仕の僕の任命権は、実質的に、長老にありますから、奉仕の僕は、長老よりも立場が低いです。

 「奉仕の僕 < 長老」という階級が、できあがってきます。

 また、奉仕の僕にならなければ、長老になることができません。ですから、奉仕の僕は長老になるための、道のりとしてとらえられがちです。

 でも、その考え方、ちょっと考え直してみませんか。

建設現場の、現場監督と実際に作業を行う技師はどちらが偉いのか

 たとえば、建設現場を考えてみてください。全体のスケジュールや状況を監督するという仕事があって、実際に作業をする仕事があります。

 では、どちらが偉いのでしょうか。技師と監督には、上下関係があるのでしょうか。それとも、仕事の違いとして認識するほうがよいのでしょうか。対等な関係として、仕事を協力的に行う関係であるというのが、優れた認識であると僕は考えます。

 つまり、会衆に当てはめると、長老と奉仕の僕は、仕事の種類が違うのであって、上下関係ではないのです。仕事の違いとして入れ替わりがあってもよいのだし、長老がやる仕事と奉仕の僕がやる仕事を交代で行ってもいいのです。

 こういう認識が、現在のエホバの証人の中にはありません。長老が上、奉仕の僕が下という、固定観念だけがあります。僕は、立場の違いというよりの、仕事の違い、役割分担の違いとして認識したほうが、ずっとよいと思っています。

 だから、今長老がやっている仕事と奉仕の僕がやっている仕事は、入れ替わりがあってもいい。仕事単位で考えて、作業の入れ替わりがあってもよいと思っています。長老だからこれ、奉仕の僕だからこれ、長老のほうが偉いとう認識はやめたほうがいいんじゃないかと思います。

 たとえば、長老は、雑誌係りとか、ステージ係とか、音響係とかは、絶対にやりません。それは、奉仕の僕の仕事といって、上から目線で監督しているだけです。でも違うんです、仕事というのは分担であって、監督が偉いということは絶対にないです。

 こうやって、長老と奉仕の僕を強く区別して、特権階級を作っているのが、現在のエホバの証人の現状です。

 長老が、奉仕の僕を任命するという制度は、聖書のどこにもでてきません。これは、統治体とものみの塔協会が、垂直的な支配を行うための取り決めであって、聖書的な根拠はまったくないです。どちらかといえば、監督と奉仕者を、会衆で任命するというのが、自然だと思います。

 まずは、できることとして、長老たちは、奉仕の僕と交代して、ステージ係りをしましょう。また雑誌係をしましょう。また音響係をしましょう。区域係りをしましょう。放り投げっぱなしは本当によくないです。

 「これは奉仕の僕の仕事だから」なんてことをやっていると、特権階級を作るのに励んでいることになりますよ。できれば、今月は、奉仕の僕がやっている仕事を、自分も率先してやりますくらいの気持ちになってほしいと思います。