閉鎖性

 だれがエホバの証人にとって隣人ですかという回答に皆さんはどう答えますか。いったいだれが自分にとって隣人なのでしょうか。

 ひとつの考えられる答えは「隣人とはエホバの証人の仲間のことです。」というものでしょう。もう一つの反対の答えは「隣人というのは自分の属するグループとは関係がない」というものでしょう。

 僕たちエホバの証人がよく知っているたとえ話があると思います。それは「三人のうちでだれが隣人になったと思いますか。」というものです。

 イエスの答えは明確でした。隣人とは、仲間を見捨てる仲間のユダヤ人ではなくて、親切にしてくれサマリア人のことなのでした。サマリア人は当時ユダヤ人とは交渉をもちませんでしたし、ユダヤ人はサマリア人のことを劣った民族だと考えていました。

 僕たちも実は同じ傾向を持っているのではないでしょうか。それはこんな言い方に現れます。「世の人は愛がない」とか「世の人は悪影響」とか「世の人は親切ではない」とか「世の人は不正をする」とかそんな言い方です。

 愛しているといってはいても、実際の言葉や行動の面では、エホバの証人である自分よりも見下してみる傾向があります。すぐに「あの人たちは悪影響だ」といいます。「あの人たちはサタンの配下にあるので悪影響だ」といいます。

 最大のおきては、神への愛と隣人への愛ですが、イエスが示されたとおり、隣人とは、自分の仲間のグループの人たちのことではありません。だから「わたしたちのグループは」とは「わたしたちのグループではないので」とか、そんな話し方はやめませんか。

 「だれに対しても親切を行っていきましょう」でいいではないですか。それともエホバの証人を増やすための親切なのですか。神のみ名のためですか。

 「あれは世の人だから」と教えられた子どもたちは、神の愛を知るでしょうか。

 収税人や罪びとと飲んだり食べたりしていたイエスをみて、パリサイ人は「あれは罪人たちの友」といいいました。また反対にぶどう酒を飲まなかったバプテスマのヨハネについては「悪霊がついている」と言いました。

 僕たちも心の中を吟味してみるのはどうでしょうか。自分と違うグループの人たちを見て、すぐに心の中で裁いてはいませんか。そんなときは隣人とはだれかということを教えてくれた、イエスの言葉を思い出してみるが役に立つのではないでしょうか。