「汚い」とか「気持ち悪い」とか安易にそんな言葉を使わないで

 僕の実家は貧乏なのでした。今はましになりましたが、祖父の時代の町の風景は、非常に貧しく、家は貧困のために、きたなく汚れたものでした。

 だから僕はよごれたものに関しては、ほとんど抵抗がないです。まぁ、僕の生活の一部だったからね。だから、宣教奉仕をしていても、どんな場所でも、どんな家でも何の嫌悪感ももたずに入っていくことができる。

 古い家やアパートで、心の柔和な人と出会えるということも多い。「貧しい人を選んで信仰に富ませた」というヤコブの手紙の中にある言葉は心にしんみりとくる。

 「汚れた衣服を着た貧しい[人]」に対しても、イエスは愛を示してくれた。何の偏見も持たずに近づいていって「わたしに信仰を働かせない」と言った。

 僕は兄弟・姉妹が持っている清潔感については、何の批判もしません。ある兄弟はより清潔なことを好みますし、ある兄弟の基準はそれよりも低いかもしれません。それが自然だと思います。

 ピカピカにするのが好きな兄弟もいれば、ほどほどにする兄弟もいます。好みに差があるので、それは自然なことだと思います。

 でもここに一つの罠が入ってきます。それは「より高い清潔感を持つ兄弟が模範的な兄弟」という価値観です。どうかお気をつけください。

 神とイエスに愛される人に対して「汚い」とか「気持ち悪い」とか、そのような感情がわいてきたときは、いつでもイエスが、そのような人たちにすすんで近づいていったということを思い出すことは、助けになると思います。

 他の人の清潔感の基準に対して、批判的になるのではなくて、自分の心を吟味します。「口から出るものが人を汚すのです」とイエスが言われたとおり、まさに心の中にある悪感情が会衆を汚してしまいます。