エホバの思いを知った人をだれが教え諭せるだろうか

 僕たちは聖書を読んで日々神の思いを知ることに励んでいると思います。真理を知ることには自由があり、聖書の正確な知識に近づけば近づくほど、自由は増します。

 キリストが「わたしの荷は軽い」と言ったことの意味がよく理解できてきます。また「すべてを捨てて追随者になりなさい」と言ったことの意味がよく理解できてきます。「必要なものはほんの少しだけ」と言ったことの意味も。

 バプテスマを受けた後であっても、この重荷は増えることがあります。もし重いと感じるのであれば自己吟味が必要かもしれません。軽いはずの真理を重くしているものはなんだろうか。重荷をだれが他人のせいにしていないだろうか。もしかしたら、背負う必要のない荷を自分から背負ってはいませんか。

 長老たちも少し荷を降ろすことができると思います。どんなふうにしてでしょうか。それは、兄弟・姉妹たちの自立を支援することによってです。

 助言をいつも与えて、多くの兄弟・姉妹を長老たちに依存させるようにするのではなくって、兄弟・姉妹が聖書を自分で読んで、考えて当てはめることができるように援助します。聖書の語句を自分が持っている価値観には誘導せずに、兄弟・姉妹に考えてもらうようにします。

 いつも助言や援助が必要な対象として兄弟・姉妹たちを見るのではなくて、自分で聖書を調べて、神の思いを知り、考えることができる習慣を育ててあげてほしいと思います。

 それはこうあるからです。

一方,霊的な人は実にすべての事柄を調べますが,その人自身はいかなる人によっても調べられません。「だれがエホバの思いを知って,彼を教え諭すようになったであろうか」とあるのです。
(新世界訳聖書 コリント人への第一の手紙2章15-16節)

 エホバの思いを知った人は、どんな人によっても調べられませんと書いてあります。つまり、その人にとっては、「神の思い」以上に、その人を諭してくれるものは何もないのです。

 僕たちは成長すると、自分で仕事を見つけて、親から自立して生活することになります。霊的な知識もよく似ています。最初僕たちは、まったくの霊的な赤子でした。神について教えてもらい、すくすくと成長していきます。

 そして、聖書の正確な知識を取りれていく段階で、だんだんと自立していきます。長老たちはぜひこの過程を支援してあげてほしいと思います。いつまでも人に依存させることじゃなくって、自立すること。そうすれば「神の思い」がその人を諭してくれるようになります。