悪人の悪はすぐに気づくけれど、善人の悪は気づきにくい

 悪人の悪にはすぐに気づくことができる。盗み、殺人、詐欺、犯罪。

 でも善人の悪には気づきにくい。たとえばその愛の背後には「金銭への愛」があるということ。その愛の背後には「差別」があるということ。その愛の背後には「強制」があるということ。その愛の背後には「偽証」があるということ。その愛の背後には「排除」があるということ。

 僕たちの主であるイエスはこのことによく気づいていたのだと思います。「災いなるかなパリサイ人。白く塗った墓よ」といったとき、この方は、善人の悪について正しく認識していたのでした。2000年も前に、このことに気づいていました。

 イエスが肯定したのは「自分を善人といったパリサイ人」ではなくて「自分の罪を認めた収税人」でした。パリサイ人は当時よい地位を得ており、収税人は差別される対象でした。

 自分は善いことをしているという自覚は、いつのまにか自分が罪人であるということを忘れさせるのだと思います。そして自分の基準で善いとは思わない人を叩いてしまう傾向があると思います。

 もし自分の罪について自覚していれば、他の人の罪を責めることは恥ずかしくてできないんじゃないかとも思います。「あなたは裸だ」と言った人が裸であれば、きっと笑われるでしょう。「あなたは罪人」だといった人が罪人であれば、神から見ればこっけいなことではないでしょうか。