「人間の取り決め」を「神の取り決め」と呼ばないほうがいい

 僕は少しいつも気になっていることがあります。それは、人間の取り決めを安易に神の取り決めと呼び過ぎだということです。

 エホバ神は、み子であるイエス・キリストを地上に使わして、イエスを信じる者に永遠の命を与えることにされました。これは、神の取り決めといえます。聖書に書かれていて、エホバ神がそのように意図しておられることが、明確だからです。

 統治体は人間です。ですから、統治体の決定は人間の決定です。聖書をよく調べて、仲間を愛し、よく祈りながら決定をすれば、聖霊に導かれてよい決定ができるということはあるかもしれません。けれども、これは神の取り決めではなくて、人間の取り決めです。ですから、この取り決めは盲従するものではなくて、注意深く吟味され、他の兄弟・姉妹が観察をのべることはなんら間違ってはいません。

 もしやりかたがうまくないと思えるのに、その時には従うとすれば、それは兄弟・姉妹の長老への愛の気持ちからです。長老を困らせたくない、わずらわせたくない、忙しい上にさらに重荷を背負わせたくないという配慮からです。

 長老の決定が神の権威を持っているからではありません。やはり人間の取り決めを、神の取り決めと安易に言ってしまうことは避けるべきことだと思われます。

 たいていの場合は、統治体が「神の取り決め」と呼んでいるのは、「自分たちで書いたマニュアル」のことです。人間の手によって書かれたマニュアルを神格化するために、このように呼んでいるように僕には思えます。マニュアルを神のように扱うのは僕はおすすめはしません。マニュアルは神ではなくて、エホバが神だからです。

 人間の行為であるのに、それを神の権威によって正当化するというのは、歴史を通じて行われてきたことです。たとえば、王権神授説という言葉を世界史の教科書で学んだことがあると思います。王は神から権威を与えられているという理由で、自分の支配権を正当化しました。しかしその支配権は、エホバが与えたものではありませんでした。

 また十字軍は神のお名前によって、自らの戦闘行為を正当化しました。この戦争は神の戦争であって、聖なる戦争と信じていたのです。けれども、行っていることは神の名を汚すものでした。

 ぜひとも人間の行動や決定を、神の権威によって正当化するという危険を統治体には、犯してほしくありません。もし人間の行動や決定を神格化すれば、それは人間崇拝、偶像崇拝になってしまうからです。「偶像崇拝を行う者は、神の王国を受け継がない」のです。そのようなことにはなってほしくありません。