「忠実で思慮深い奴隷」を神格化してはならない
僕たちが注意したいのは「忠実で思慮深い奴隷」の神格化です。神格化というのは、神のようにみなすということです。エホバ神は、人間の神格化に対しては非常に憤られる方です。また称号や地位を神格化することも、同様に偶像崇拝であり、非常な怒りを持ってご覧になります。
神格化とは無条件に権威を認めること
聖書に書かれている一つの大切な指針のひとつは、理性による奉仕です。これは、実際に聖書を調べて、納得した上で受け入れるということが大切ということを意味しています。けれども、統治体は一つの例外を設けています。それが「忠実で思慮深い奴隷」という称号です。
統治体は「忠実で思慮深い奴隷を無条件で信じなさい」といいます。「神が定めた経路を疑うことはいけない」といいます。「何も疑いを持たずに、こちらのことは気にせずに、平穏に暮らしなさい」といいます。「第二の経路をつくってはいけない」といいます。
けれども僕は勇気を持っていいますけれど「忠実で思慮深い奴隷」に対する崇拝は、偶像崇拝です。
忠実で思慮深い奴隷に対する崇拝は偶像崇拝
偶像崇拝は、エホバ神が最も憎むものです。「忠実で思慮深い奴隷」は、統治体とものみの塔協会の権力の源として機能してきました。「忠実で思慮深い奴隷」という称号を引き継いだ人たちが、支配権を持つというのが、統治体の伝統的な考え方です。だから「忠実で思慮深い奴隷」という称号に傷をつけようとする人たちは、統治体にとっては、ものすごく嫌な相手なのです。少しでもそれを傷つけようとした人には、激しく憤ります。
統治体にとっては、「忠実で思慮深い奴隷」は、どうしても奪われたくはない神格化された称号なのです。称号への崇拝は、エホバ神から見れば、偶像崇拝です。賛美と栄光をエホバ神には帰せずに、「忠実で思慮深い奴隷」に帰そうとします。
統治体は、巡回監督や地域監督に、「祈りのなかで忠実で思慮深い奴隷を賛美し感謝するよう」にというマニュアルを自分で作成して、それを行うことを指示しています。エホバの横に並べて「忠実で思慮深い奴隷」も賛美してもらいたいのです。エホバが求めておられるのは、ご自分の栄光を輝かせることです。そして高く上げられた神の栄光によって、僕たちも輝くことです。
エホバの横に並べてしまっては、エホバの栄光が曇るではありませんか。その雲りによってエホバの栄光が輝くなってしまったらどうするのですか。僕は統治体の兄弟たちに、支配権をエホバに返してくださいといいたいです。賛美と栄光もエホバに返してください。
支配権の論争は聖書の中で大切なテーマのひとつです。支配権は神にあるか、人間にあるかという論争です。統治体は「忠実で思慮深い奴隷」に支配権があるといいたいかもしれませんが、僕は神に支配権があると主張したいと思います。
支配権はエホバのもの。エホバが主権者。
また神への唯一の経路はイエス・キリストです。キリストにおいて思いを一致させることが、大切です。人間の基準において思いを一致させるのではなくって、イエス・キリストにおいて思いを一致させるのです。
そういう意味では「忠実で思慮深い奴隷」は二番目の経路といえます。エホバが認める経路はみ子イエス・キリストだけです。み子自身も「わたしが真理であり、道であり、命です」といわれます。イエス・キリスト以外の経路は滅びに至る道につながっています。
統治体は「忠実で思慮深い奴隷」が唯一の経路と主張しますが、僕はイエス・キリストが唯一の経路と主張したいと思います。どうか統治体の兄弟たち、自分には権利があると考えたり、デオトレフェスのように主たる者の地位を主張するのではなくて、どうか経路をイエスに返してください。
エホバへの経路はイエス・キリストただひとり。
僕はしばらく統治体について語ります。