統治体は僕たちのことを所有物だと思っている

 僕は統治体の兄弟のことを、兄弟とか友と呼びます。でも残念なことに、統治体の兄弟は、僕たちのことを所有物とか持ち物だと思っています。

統治体は、僕たちエホバの証人の兄弟・姉妹のことを持ち物だと思っている

 聖書には「それは,すべての者がエホバの名を呼び求め,肩を並べて[神]に仕えるためである」とあって、すべての兄弟・姉妹が肩を並べてエホバに仕えるということが、神の目的です。でも統治体の兄弟は、神の言葉を乗り越えて、僕たちを所有物だと思っています。「統治体=所有者」で「僕たち=所有される物」です。

 どうして神に仕える兄弟・姉妹の間に、このような区別を設けてしまったのでしょうか。統治体はサタンの罠にはまってしまったのでしょうか。もしそうであれば、穴に落ち込んでいる統治体の兄弟の手を引っ張ってあげないといけません。「一匹の羊を持っていて,それが安息日に穴に落ち込んだ場合,それをつかんで引き出さない人がいるでしょうか。」とあるからです。

 僕は、思い込みで、適当にこんなことを言っているのではないです。これは、エホバの証人が持っている表だってはあまり出てこない教理のひとつです。

 以下の教理です。

忠実で思慮深い奴隷は1919年に地にある持ち物をイエスからゆだねられた。

 持ち物というのは、人間も含まれていると解釈されていて、1919年以降「忠実で思慮深い奴隷」は人間の所有者になりました。もう一度大切なのでいいますが、1919年以降「忠実で思慮深い奴隷」は人間の所有者になりました。

 『1919年以降、人間の間には、「所有する者」と「所有される者」という差別が設けられました。』というのが、現在統治体が信仰している教理です。だから「主人の言うとおり所有されている者はおとなしく言うことを聞いていなさい」という教理でもあります。

 僕ははっきりといってしまうけれど、この教理によって、統治体は「主権」をエホバから奪い去っているし、「経路」をイエスから奪い去ってしまっている。統治体の兄弟たち、僕は宣べ伝えたいと思います。どうか「主権」をエホバに返して、「経路」をイエスに返してください。それが最善の道だと僕は信じます。

 エホバのみ前で、自らを大きいものとして示すのはやめてください。統治体の兄弟たち、肩を並べて、一緒に奉仕をしませんか。イエスがこられるときまで、同じ囲いの羊として一緒に奉仕をしませんか。