一つの肢体が苦しめば,ほかのすべての肢体は共に苦しむ

 神は不公平な方ではないの、小数の人が苦しんでいる苦しみを決してそのままにはしてはおかれません。99人だけの幸福は、神の目にとってはあまり意味がありません。一人が苦しんで、羊の群れから離れようとするならば、それは神の目からみてとても苦しいものです。

 イエスはたとえ話の中で、99匹の羊を置いて、迷子になっている一匹の羊を探しにいくといいます。イエスが離れるなら99匹の羊はとても不安になるでしょう。けれども、たった一匹で孤独に苦しんでいるひとりの苦しみは、もっとひどいものでしょう。

 それでイエスは99匹の羊をおいて、1匹の羊を探しに出かけます。99匹の羊はイエスがいないことで、不安や苦しみを覚えるでしょう。それでも1匹の迷子の羊のために、苦しみを共にします。

 そして、見つかったならば、すべての羊と羊飼いは共に喜ぶのです。

 最大多数の最大幸福という観念は聖書的な観念ではありません。聖書の教えは、ひとりが苦しめば共に苦しみ、一人が救われるなら共に喜ぶというものです。

それで,一つの肢体が苦しめば,ほかのすべての肢体が共に苦しみ,ひとつの肢体が栄光を受ければ,ほかのすべての肢体が共に歓ぶのです。
(新世界訳聖書 コリント人への第二の手紙 12章26節)

 うまくいっているうちは自分は大丈夫と考えます。でも、自分が一匹の迷える羊になる可能性は0ではないですし、いつでも一匹の羊になる可能性があります。

 99人の中でうまくやっているうちだけが幸せだとすれば、自分が一匹になったときに、仲間は怖いものになるかもしれません。そうではなくて、自分が一匹の羊になったときに、避ける仲間ではなくて、共に苦しんでくれる仲間がいたほうが安心ではないでしょうか。

 もし会衆を一つの価値観で染めるとすれば、その価値観になじめなかった兄弟・姉妹は、自分の居場所を失ったと感じます。自分の居場所がなくなったと感じるなら、その場所を離れてしまうのは、自然なことではないでしょうか。

 聖書で語られている神の義は、ぜんぜん偏狭的なものではありません。求めるすべての人にとっての神であるので、そのお考えは広く、豊かなものです。神の霊のあるところには自由があります。不自由ではなく、自由があります。