エホバの愛ある親切がわたしを支え続けました

 「もうだめかもしれない」「もう留まっていることはできないかもしれない」「自分の居場所が見つからない」「自分は愛されてはいないのではないだろうか」。そんな風に考えることは誰しもあります。

 「このままではきっと倒れてしまうだろう」。そんな不安が頭をよぎります。思い煩いたくはないのに、だれも責めたくはないのに、心の中は、自分が望んでいない感情でいっぱいになります。

 自分は傷つきたくなし、誰にも傷ついてほしくはないと思います。ただ愛し愛されることができればと思います。けれども、さまざまな限界のためにそれを達成することができないので、心は辛い気持ちでいっぱいになります。

 たくさんの思い煩いが、心を押しつぶそうとします。憎みたくもないのに憎む気持ちでいっぱいになります。愛したいと思っているのに、それができません。それが心にずっと続くので、心も体も倒れそうになります。

 それでも、エホバは、僕たちの心を知っておられる方は、愛ある親切に満ちているので、いつでも僕たちを支えてくださいます。

「わたしの足はきっとよろめいて行くだろう」と,わたしが言ったとき,
エホバよ,あなたの愛ある親切がわたしを支えつづけました。

不安の念を起こさせるわたしの考えがわたしの内で多くなったとき,
あなたの慰めがわたしの魂をいとおしむようになりました。

(新世界訳聖書 詩編94編18-19節)

 イエスは「悲しむものは幸いです。その人は慰められるからです。」といいました。詩編のこの聖句では、同じことが書かれていますね。

 「よろめいていくだろう」といったとき「エホバは愛ある親切によって支えてくださる」ということ。「不安の念」が起こったとき「エホバは慰めてくださる」ということ。

 神は弱い人を放っておいたりはされません。弱くなるとき、エホバはいつも近づいてきて力を与えてくださいます。辛いことがあって涙を流したとき、エホバはいつも慰めてくださいます。

 エホバは不公正な方ではないので、弱い人たちを選んで、多くの信仰をお与えになります。

 強い人は自分の力で立つのにたいして、弱い人はエホバによって立ちます。強い人は、自分の足で歩いていくのに対して、弱い人は、エホバによって歩んでいきます。神の愛によって歩むという点では、強い人よりも、より多くの場面でエホバを知ることができます。

 世間から見たとき、自分が弱いことは欠点に見えます。何か能力が欠けていたり、周囲よりも成長が遅いということはだめなことのように感じます。けれども、あなたはいつでも神をたより、神はいつでもあなたを補ってくれるので、信仰という点では、とても強いものになっています。

 それで、神は不公平な方ではないのです。倒れそうなときにいは、いつでも助けたいと思っておられます。いつでもエホバを頼っていきたいものですね。