僕は現在の教理がどのように変化していってほしいと思っているか
僕は現在の教理がどのように変化していってほしいと思っているかということをまとめてみます。
油注がれた者が14万4000人
僕が聖書を読んだ限りでは、油注がれた者と14万4000人を結びつける記述は聖書の中にはないように思えます。「聖霊による証印」という言葉は「14万4000人」であることの証になっていますけれど、「油注ぎ」が14万4000人という記述は、啓示の書のどこにもでてきません。
ぜひ一度啓示をじっくりと読んでみてください。「油注ぎ」と「14万4000人」を結びつけている箇所は一つもありません。
聖書の中で、イエスが裁きの座につくことを直接約束されたのは、使徒たちに対してだけだと思います。それ以外の弟子たちには、約束してはいないと思います。
1世紀当時のクリスチャンの多くが14万4000人
1世紀当時の多くのクリスチャンは、聖霊を注がれたというのは本当です。でもこれが14万4000人のしるしという記述は聖書の中に一度もでてきません。
「油注がれた者=14万4000人」という理論は、「油注ぎ」と使徒たちの活動にでてくると「聖霊によるバプテスマ」と啓示の書に出てくる「聖霊による証印」を無理に同一視することから、発生しているように思えます。
聖霊によるパブテスマをほどこされるのは14万4000人だけ
少なくとも1世紀当時のクリスチャンの多くが、聖霊によるバプテスマを施されたのであれば、これは14万4000人にだけ該当するのではなくて、すべてのクリスチャンに該当するように思えます。イエスが「水と霊によって再び生まれなければならない」といったのは14万4000人に対してではなく、すべてのクリスチャンに言った言葉のように思います。
14万4000人であることを確信できる
14万4000人であることを確信することはできないと思います。少なくとも裁きの座にともにつくことをイエスが約束したのは使途たちに対してだけです。パウロでさえ、「自分はそれに達したとは思っていません」という記述があるので、自分が14万4000人であることを確信していなかったように思われます。
また「自分がキリストだ」と述べることは、終わりの日に登場する惑わすものであるとイエス自身が述べています。
他の囲いの羊や大群衆という言葉を使うこと
14万4000人が例外なのであれば、特に「他の囲いの羊」や「大群衆」を目立たせて使う必要はないと思います。単にクリスチャンと呼べばよいと思います。今地上で生活している間に14万4000人とそれ以外の人々の区別を、強調させることは、あまり意味がないのではないかと思います。
主要な牧者であるイエスが到来するまでは、みんな肩を並べて奉仕するのがよいのではないかと思います。
忠実で思慮深い奴隷は油注がれている
「忠実で思慮深い奴隷」と呼ばれる人が、「油注がれている」という記述は聖書中には一度もでてきません。ですので、「忠実で思慮深い奴隷」と「油注がれている」ことは何の関係もないように思えます。
1919年に忠実で思慮深い奴隷に地にあるものすべてが与えられた
忠実で思慮深い奉仕をしたとエホバが認めた人に、すでに与えられたのではなくて、イエスが到来する将来に与えられるのだと思われます。
1919年に、イエスがある人たちを任命したのではなくて、将来に任命するように思います。今任命されていると主張することは、多くの人を惑わすことになると思います。
イエスの臨在は2回ある
聖書にはイエスの臨在の記述がありますが、これを二度あると説明するのは、非常に不自然だと思います。1914年と将来に2度起こるという解釈は、聖書自体から読み取ることができないと思います。
607年にエルサレルが滅びた
607年にエルサレルが滅びたという説は、聖書的な根拠が非常に薄く、実際の歴史学では完全に否定されています。特に強調する必要がある年代とは思えません。
食物は出版物を指す
聖書では、食物というのは出版物を指しているわけではないのはすぐわかると思います。イエスが、1世紀当時に、食物という言葉で「ものみの塔聖書冊子協会の発行する出版物」のことを意味していたとは到底思えないからです。
聖書の記述に従って「わたしの肉は真の食物であり,わたしの血は真の飲み物なのです。」とあるように、イエスへの信仰という解釈が妥当であると思えます。
イエスが兄弟と呼んだのは14万4000人だけ
イエスが兄弟と呼んだのは、弟子たちすべてではなかったのではないかと思います。少なくともイエスが兄弟が14万4000人という記述は聖書中のどこにも登場しません。
新しい契約の当事者は14万4000人だけ
新しい契約の当事者は、14万4000人だけではなくて、弟子たちすべてではなかったのではないかのかと思います。つまりすべての兄弟を含んでいると僕は考えます。
主の記念式でパンを食べぶどう酒を食べるのは14万4000人だけ
上で書いたように、新しい契約の当事者というのは、すべての兄弟・姉妹を含んでいると僕は考えています。それで、すべての兄弟・姉妹が主の記念式でパンを食べぶどう酒を食べるのがよいのではないかと考えています。
また主の晩餐というのは、食事会であって、講演会ではないと思われます。
終わりに
聖書の解釈というのは、聖書自体が語るようにするほうがよいと考えています。現在の解釈と僕が考えていることと、どちらが聖書自体から見て妥当かみなさんも考えてほしいと思います。そして、あせらずに強硬に主張したりしないで、のんびりまちましょう。