真実なことを行なう者は光のもとにくる
もし嘘をついていたり、自分の行っていることに後ろめたさがあるのなら、そのことを隠したいと思うのではないでしょうか。うまく隠し通せているうちは、うまくいきます。けれども、嘘がばれると、信用がものすごく落ちてしまいます。
またうまく隠していたと思っても、思わぬところで隠していたことがばれてしまいます。そうなると、信用がものすごく落ちてしまいます。
もっともよい方法はなんでしょうか。それは、自分の行いを神のおきてに従ってなすということです。そうすれば、それが明らかになったときに、責められることは何もありません。真実なことを行っているので、それがばれたとしても、何の責めも負いません。
だから正直に光の下で活動することができます。反対に、神に従って行っていない場合は、それが明らかになることを何とか隠さないといけません。それで、光の下にはこずに、闇へ隠れようとします。
いとうべき事柄を習わしにする者は,光を憎んで,光に来ません。自分の業が戒められないようにするためです。しかし,真実なことを行なう者は光に来て,自分の業が神に従ってなされていることが明らかになるようにします。
(新世界訳聖書 ヨハネ3章20-21節)
光に来るという意味は、今風にいえば、情報をオープンにするという意味です。本当に僕たちの業が聖書に従って行っているのであれば、すべての情報が公に明らかになっても、僕たちは何も後ろめたい気持ちはないはずです。また情報がオープンになれば、不信感は払拭されるでしょう。隠しているのではないかという不信から解放されるからです。
もしそうではないならば「一般の人には知らさないように」とか「一般の信者には知らさないよう」にという方針があるはずです。それを公にするのは後ろめたく、神に従って行われていないことがばれてしまうからです。
もしクリスチャン会衆内にもし「一般の人には知らさないように」という方針があることがわかったなら、一度この聖書の言葉に照らして黙想してみることをおすすめします。