光の中を歩むとは
聖書には光の子として歩んでいきなさいと書かれています。光とは、明るいとか、見えるとか、明らかにするとか、そういうことの比ゆでもあります。
いとうべき事柄を習わしにする者は,光を憎んで,光に来ません。自分の業が戒められないようにするためです。しかし,真実なことを行なう者は光に来て,自分の業が神に従ってなされていることが明らかになるようにします。
(ヨハネ 3:20-21)
闇の中を歩んでいる人は、光を自称しながらも、その行動がいましめられないようにするために、都合の悪いことは、隠します。一方、光の中を歩んでいる人は、それが神に従ってなされていることが明らかになるようにします。
これは、簡単に言えば、自分の行動が公になっても、後ろめたくないかどうかという観点ですね。神に従ってなされているとすれば、それが公になっても、何も恥じるところがありません。一方、それが隠したいことであれば、神に対しても後ろめたいのです。
僕は統治体、日本支部、巡回監督、長老が適用する聖句で大嫌いな聖句があります。それは「蛇のようにさとくありなさい」という聖句で「組織にとって都合の悪いことは隠しなさい」という適用です。相手の動機を見て、組織の価値が下がるようなものであるならば、話す必要はないというものです。
イエスは、この言葉を、弟子たちの命を守るために言ったのです。それが、不都合なことを隠すことに適用されていることは、非常に残念なことであります。
僕たちに求められていることは、立場を定めて罪を裁くことなのではありません。光のもとにあって、あらわに罪を告白しつつ、互いに許しあうことです。過度に責め続けることではなくって、あらわに罪を告白して、悔い改め、互いに許しあうことです。
しかし、統治体は決して自分の非を認めません。いとうべき事柄を習わしにしているので,光にでてくることができません。それは、自分の業がいましめられないためです。けれども、聖書が教えていることは、互いに悪いことや罪を告白し、互いに許しあうことなのです。もう会衆の弱い立場の人を一方的に裁き、一方的に悔い改めを求めるという悪い習慣を終わりにしませんか。
一方的に責めるではなくって、自分の悪い部分を告白しつつ、許しあい、祈ることが必要です。
ですから,互いに自分の罪をあらわに告白し,互いのために祈りなさい。
(ヤコブ 1:16)
ですから,もはや互いに裁くことがないようにしましょう。それよりも,兄弟の前につまずきとなるものや転ぶもとになるものを置かないこと,これをあなた方の決意としなさい。
(ローマ 14:13)
エホバの証人の社会には、互いに裁いてはならない、互いに許しあうという観点がまったく抜け落ちてしまっていて、立場の低い人を一方的に裁き、一方的に悔い改めさせるという悪い習慣があります。これは、なくしていきたいですね。