聖書はお金についてなんと言っているか

 聖書には、イエス・キリスト使徒たち、またエルサレムに年長者たちが、自らお金を集めて蓄えたという記述は存在していません。お金を熱心に蓄えていたのはその当時のユダヤ人の宗教指導者たちでした。

 当時の宗教指導者たちは神を崇拝しているといいながらも、その実際は金を愛するものたちでした。親のために使うためのお金でさえ、理由をつけて神殿に奉納させようとしていました。表面上は立派な神の崇拝者でしたが、内面は金銭を愛するものであることをイエスは見抜いていました。

カエサルのものはカエサルに返しなさい

 イエスは「カエサルのものはカエサルに返しなさい」といわれました。カエサルというのは当時のローマ皇帝のことを指しています。当時の通貨には、ローマ皇帝の肖像が彫られていました。つまり、カエサルのものという言葉でイエスは「金銭や富」を比喩していたと思われます。

 イエスが「カエサルのものはわたしに返しなさい」といわれなかったことに注目できます。つまり、「お金や資産をイエス・キリストのために用いなさい」とは言われなかったのです。

 当時の宗教指導者たちが、神を崇拝しているといいながら、莫大な資産を内部に蓄えていたということが推測できますね。もちろん宗教指導者たちは「この資産は自分たちのためではなく、神のためにもちいているのだ」といったことでしょう。

 けれどもイエスははっきりと「富と神の両方に仕える事はできない」といわれました。これは神の目から見た場合、義にかなったことではなかったのです。

資産を貧しいものに差し出して、わたしの追随者になりなさい

 イエスは資産を多く有している若者に「資産を貧しいものに差し出してから、わたしの追随者になりなさい」といわれました。イエスの考え方を見ると「追随者になってから、資産をわたしのために用いなさい」といっていないことがわかりますね。

 この考え方は非常に大切な考え方だと思います。イエスは「宝を天に蓄えなさい」と言われました。「宗教指導者たちのもとに資産を蓄えなさい」とは言われませんでした。宗教組織というのは、ほとんどの場合巧妙に自分たちのもとに資産を移動させようとします。人と金を自由に使えれば、大規模な支配体制を作ることができるからです。

 けれども、聖書の教えはまったく逆です。イエスにとっては、お金を集めることではなく、神への愛と信仰が最も重要なものでした。

必要に応じて分け合った

 エルサレムで窮乏が起こったとき、パウロは会衆に手紙を送って、窮乏に苦しんでいる仲間を助けるために、自分の思うところの額を寄付してくれるようにと頼みました。そのようにして、必要に応じて分け合うということが、クリスチャン会衆の間では行われていたようです。

 これからわかるときは、エルサレルにいる使徒たちと年長者たちは、中央集権的な体制を作って、資産を蓄えたりはしていなかったということです。そうではなくて、必要に応じて会衆で分け合うということが行われていたように思えます。