ものみの塔協会は輸血に関する質問に対してどう対応するか

 開拓奉仕学校に参加すると、もれなく「照らす者」という教科書がもらえます。この教科書の中には、輸血に関する決定について書かれている部分があります。

血を食べることや輸血については、個々のクリスチャンの良心に違いがあるはずがないのはなぜですか。
(p212)

 これは何を言っているかというと、輸血に関する決定に関しては個々のクリスチャンで一致しているべきだということです。もちろん、個々で一致しているべきであれば、ものみの塔協会の見解としても一致しているはずだと考えるでしょう。

 もしものみの塔協会の日本支部に、命にかかわる状況であるときに、輸血に関する決定を投げかけたとすれば、どのような返答が返ってくると思われますか。以下のAという回答が返ってくるか、それともBという回答が返ってくるかどちらだと思われますか。

A. 輸血はしていはいけない

個々のクリスチャンの良心に違いがあるはずがないので、輸血をしてはいけません。

B. 輸血をするのは個人の決定

輸血をするかどうかは、個人の決定に属することです。

答えはどちらでしょうか

 僕が直接の当事者ではないので、まだうわさのレベルなのですが、僕が聞いた限りではBの回答が返ってきます。

 この理由は推測するしかないのですが、ものみの塔協会が、親族から訴訟を起こされるリスクを回避したいので、マニュアル化して電話担当者に対応させていると思われます。おそらく「輸血をしてはいけないとは絶対にいわないこと」という指示があると推測します。

 問題はものみの塔協会のダブルスタンダードです。これでは「重荷をくくりつけておきながら、自らは負わない人」になってしまっています。

殺人を犯そうとしている友を止めますか

 もし人を殺したいと思っている友達がいれば、それを止めますか。僕なら止めます。殺人はエホバに対して罪を犯すことになってしまうからです。人を殺すかどうかは、クリスチャンの良心に違いがあるはずがないので、絶対にそういうことをしちゃいけないといって僕は止めます。

 では輸血をしようとしている友をあなたは止めますか。本当にエホバに対して罪を犯すことだと信じているならば止めるでしょう。そうでないならば、止めないでしょう。

 ものみの塔協会は、輸血はエホバに対しての罪になると教えていながら、それを行おうとするときには止めないという事実があったとすれば、これはとても大きな問題だと思います。