宣べ伝えることは大切。でも量や方法は、どうでもいい。

 僕は宣べ伝えるということは、とても大切なことだと考えています。この点では、僕はエホバの証人の全員が宣教をするというスタイルを肯定しています。

 家から家でもなくてもよいけれど、何らかの形で「王国についてのよい便り」を他の人に語ることは大切なことだと考えています。

 大きな理由は、イエス・キリストが「全地に宣べ伝えなさい」と言ったということです。聖書がすべての人のために書かれたのであれば、この言葉はクリスチャン全てに当てはめるのが自然だと思われます。

 何らかの形で、よい便りについて宣べ伝えること、これはとても大切なことだと思います。

宣教する時間は本当にどうでもよいこと

 エホバの証人が抱える大きな問題のひとつは、宣教する時間に非常に大きな価値が置かれているということです。奉仕の話では、いつでも宣教の時間を増やすことや、宣教の分野を拡大することに、重点が置かれます。

 けれども、本来はこんな観点はどうでもよいことです。大切なことは「宣教奉仕をする」ということであって、「時間の多さ」ではありません。

 70時間という時間に規定されて奉仕を達成するのは無意味なことです。時間のための奉仕ですか、巡回監督に時間について言われるのがいやなのですか、開拓奉仕を下ろされるのが怖いのですか、特権にあずかれていない自分が恥ずかしいのですか、どれだけ奉仕をしているかということでお互いを比較しているのですか。

 せっかくイエスが、イエス・キリストの贖いへの信仰に基づく救いを用意してくれたのに、業によって救われようというのでしょうか。宣教することは大切なことです。けれども、宣教自体が大切なわけではなくて、信仰の表れとして宣教奉仕することが大切なのではないでしょうか。

 イエス・キリストの贖いの犠牲によって、神の愛を知ったので、その気持ちから、多くの人に伝えたいと思います。そのために、自分の時間の中の大切な部分の一部を買い取って、宣教奉仕を行います。すべてを捧げる必要はなくて、貴重な時間の一部を、自分なりに決めて、使えばよいと思います。

 普通の仕事と宣教奉仕と会衆の仕事と集会の時間を、合算して200時間を越えているなら、働きすぎの傾向があると思います。もう少し体を休めましょう。巡回監督や長老は、働きすぎを誉めないようにしてください。それは、日本の会社や体育会系の組織で見られる悪い伝統です。それほど重要ではない作業を思い切って削る、これが大切だと思います。

宣べ伝える方法もどうでもよい

 「出版物とパンフレットを使うことがエホバの方法です。」と聞かされていますか。でも、これは神が聖書でいったことではなくて、単に人間が考えついた方法です。だから、これを神の方法と呼ぶのはやめましょう。単に、人間が思いついた方法です。ただ単に、ものみの塔協会が出版事業を行っているというだけの話で、神の方法ではありません。

 必要なことは全地に宣べ伝えることではないですか。それならば、インターネットで宣教をすることも、ひとつの手段として役に立つと思います。またものみの塔協会(jw.org)だけではなくて、エホバの証人の個人個人が、インターネットで伝道を行ったり、ブログに神について書いたり、教理について真剣に議論することは、人々の興味を惹くはずです。

 なかなかアクセスすることのできない若い人たちにもアクセスすることができると思いますし、インターホンでなかなか話せない人と話す機会ができるかもしれません。