審理委員会という名の宗教裁判

 現在、統治体は、審理委員会という、宗教的な裁判制度を設けることを、各会衆に求めています。審理委員会という名前ですが、事実上は、会衆単位で行われる宗教裁判です。

 統治体によって、会衆の長老に任命されると、審理委員会で、会衆の成員を裁く必要が生じます。統治体による作成の「神の群れを牧する」という長老の教科書の手順に従って、宗教的な罪を犯した人を、裁く必要があります。

 審理委員会の一番の問題点はなんでしょうか。それは明らかですが、聖書とは何の関係もないということです。審理委員会が聖書に登場することもなければ、行い方の手順に聖書的な根拠があるわけではなくて、すべて統治体の独断によるマニュアルによるということです。パリサイ人が行ったように、特定の人間が独自の基準を設けて、それによって人を裁きます。

 もし長老になりたいと思う兄弟がいれば、自分が長老になった場合は、聖書的に何の根拠も見いだせない、審理委員会と呼ばれる宗教裁判を行う必要があるということを、知っておいてもらえたらと思います。

 長老の教科書を早い段階で見せてもらって、本当に自分が行いたい仕事かどうかを判断してほしいと思います。特権獲得のために盲目的に励むのではなくて、長老は現在どんな仕事を行っているかということを知ってから目指しましょう。

 長老がいなくなったら会衆が成り立たないではないかと心配する必要はないです。長老が足りなくなったら、その仕事を他の兄弟たちが分担して行ったらいいのです。

 演壇で話をするのに、長老である必要はないのではないでしょうか。王国会館の管理をするのに、長老である必要はないのではないでしょうか。報告の仕事をするのに、長老である必要はないのではないでしょうか。宣教奉仕の事務的な仕事をするのに、長老である必要はないのではないでしょうか。そもそも、長老でなければ、行えない仕事はないと思います。

 現状の仕組みは、立場と仕事が、密に結合しています。たとえば「ステージ係は、奉仕の僕がして、長老はやらない」といった風にです。僕は、立場なんてなくしてしまって、仕事を分担すればいいと思っています。そうすれば、年功序列や立場による上下関係ではなくって、仕事の役割によってお互いを尊重できます。