わたしはエホバであり、わたしは変わっていないのである

 神は変化したのでしょうか。ヘブライ語聖書の神は恐ろしい神で、ギリシャ語聖書の神は、愛ある神なのでしょうか。ヘブライ語聖書の神とギリシャ語聖書の神の性格が異なるように見えますか。

 ヘブライ語聖書の神はイスラエル人の宗教における神で、ギリシャ語聖書の神はイエス・キリストが作ったキリスト教における神なのでしょうか。イエス・キリストという宗教者が神の性格を変革してしまったのでしょうか。

 けれども聖書自身はそうは語りません。神はずっと過去から神ですし、ずっと未来においても神です。神の目的は、最初から終わりまで変わっておらず、愛ある親切もその性格も変わっていません。

 エホバはこういわれます。

わたしはエホバであり,わたしは変わっていないのである。
(新世界訳聖書 マラキ3章6節)

 この聖句は、イスラエル人が、罪を犯したり、不公正を働くようになって、神が存在しないかのように振舞ったときに、エホバがイスラエル人に向かって言われた言葉です。

 ギリシャ語聖書に書かれている聖句ではありませんが、ヨハネの啓示には「わたしは最初であり最後であり,また,生きている者である。」ともあります。つまり、最初の最初から終わりの終わりまで、神は同じであり、ずっと生きているということが聖書には書かれています。

 ではなぜヘブライ語聖書の神は恐ろしく見えるのでしょうか。僕はこう考えます。それは、神が変わったのではなくて、人のほうが変化したのだと。

 ヘブライ語聖書では、いつでも反抗的なイスラエルと罪深い諸国民が描かれています。エホバ自身は、決して義なる者を死に追いやるとうことは決してしません。罪が満ちたときに、エホバは裁きを行われましたが、それはイスラエルや他の諸国民の罪が満ちたときです。

 エホバは、公正な方ですから、「命には命、暴虐には暴虐、強奪には強奪、殺人には殺人」で報います。「愛ある親切に対しては愛ある親切で、忠節には忠節で、近づく者には近づき、与えるものには差し出し」ます。

 ギリシャ語聖書の特徴は、イエス・キリストや弟子たちは、当時のイスラエル人と異なり、神を信じて、神のご意志に従って生きたということです。その結果、エホバは報いて、イエスを復活させ、天の高いところに引き上げました。

 つまり僕が言いたいことは、エホバが変化したのではなくて、人のほうが変化したので、それに応じて神の態度が変化しているのだということです。

 祈りを通して、愛を抱いてエホバに近づけば、エホバはあなたに、愛を持って近づいてくださいます。エホバに対して忠節を示せば、エホバは忠節を示してくださいます。エホバに信仰を働かせれば、エホバもあなたを信じてくださいます。エホバを高め、自分が謙遜でいれば、あなたはエホバによって高められます。

 エホバはそのような方です。