命を助けることに関する聖句を再検討する。血の用い方について。

 統治体とものみの塔協会は、現在輸血に関して、次のような強い信仰を持っています。

輸血して短い命が助かるくらいならば、死んで復活したほうがよい。

 統治体は、血を受け入れることは、死に値する重大な罪といいます。「でも、それって本当にエホバの観点なの?」と疑問が浮かんでくることはありませんか。「その犠牲は、本当にエホバが望んでいることなの、イエスが望んでいることなの」という疑問です。助かる命を助けないことを神は望んでいるのでしょうか。

 では今回は、そのことについて聖書から考えてみましょう。

私は憐れみを望み犠牲を望まなかった

 神が望んでおられるのは、憐れみであって、犠牲ではありません。

わたしが喜びとしたのは愛ある親切であって,犠牲ではなかったからである。また,全焼燔の捧げ物より,むしろ神を知ることであった。
(新世界訳聖書 ホセア書6章6節)

 エホバは愛ある親切を喜びとしておられ、犠牲を望んではおられません。では、病気の人に対して、また死にそうなくらいの大きな怪我を負っている人に、僕たちは、どのような態度をとりますか。助かってほしいと強く祈るのではないでしょうか。それとも「復活するんだから死んだほうがよい」と考えますか。

 さて、どちらがエホバの考え方に近いでしょうか。

安息日に人を助けることは許されているのです

 イエスは、いつでも行って、神の言葉を語り、また病気の人を助けました。またイエスは、安息日であっても、すすんで病気の人を癒しました。当時のパリサイ人は、人を助けることは仕事に当たるので、死に値する罪だと考えていたのです。

 けれども、イエスは次のように語って、安息日に人を助けることは、神の考え方にかなっていることをしめしました。

「あなた方のうち,自分の息子や牛が井戸に落ち込んだ場合,安息日だからといってこれをすぐに引き上げない人がいるでしょうか」。
(新世界訳聖書 ルカ14章5節)

 イエスは、次の聖句を念頭においています。それは、兄弟の牛が迷子になった場合に助けなければならないというヘブライ語聖書の聖句です。

あなたの兄弟のろばまたは牛が路上で倒れるのを見ながら,故意にそれから身を引いてはならない。是非とも彼を助けて,これを起き上がらせるべきである。
(新世界訳聖書 申命記22章4節)

 神の言葉は、牛が倒れているなら助けるようにと語っています。それで、動物を助けることは安息日に行ってもよいことでした。ですので、当然、動物より貴重な人間の命を助けることは安息日に行ってもよいことでした。

 安息日は神の神聖な日で、それを汚すことは死に値します。けれども、安息日に命を助けることは、神の目にかなっているのです。では、血をもちいて命を助けることは、エホバの目にかなっていますか。血を避けていなさいというのは、絶対的な命令でしたか、それとも、命を助けるためには血を用いてもよいのでしょうか。

飢えて命を失うのに比べれば、安息日に穂をむしって食べることはよいこと

 エホバ神は、安息日に休むようにいわれましたが、命がかかっている場合においては、その観点が緩和されるということがあります。それほどまでに、命は神の目から見たときに貴重なのです。

 イエスは、安息日に、弟子たちと一緒に、穂をむしって食べていました。そのときにパリサイ人は、安息日にしてはいけないことをしているとイエスにいわれました。イエスはなんといわれたのでしょうか。

「あなた方は,ダビデおよび共にいた人たちが飢えた時に[ダビデ]が何をしたかを読まなかったのですか。すなわち,彼が神の家の中に入り,みんなで供え物のパンを食べたことを。それは,彼も,また共にいた者たちも食べることを許されず,ただ祭司たちだけに[許された]ものだったのです。
(新世界訳聖書 マタイによる書12章3-4節)

 神殿の中にあるパンは、祭祀だけが食べることを許されていたものでした。ダビデダビデと共にいたものも、食べることは本来は許されないものでした。けれども、このときダビデは逃走中であって、一緒にいる人たちに対して、飢えないように何か食べさせてあげたいと思いました。それで、神のおきてを破って、祭祀にパンを求めました。

 このパンは、神殿で捧げられているものなので、本来はエホバのものなのです。ですから、祭祀職を行っている人だけが食べることを許されたものでした。けれども、命を助けるためならば、エホバは、ご自分の要求を緩和されました。ダビデは何も責められませんでした。

 では、命がかかっている場合に、血を避けていなさいという神の要求を、エホバは緩和されるでしょうか。命がかかっている場合に、輸血を受け入れた人を、エホバは責めるでしょうか。

罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう。

 僕たちは、神の憐れみについて、もう少し理解する必要があると感じます。神の憐れみを知っていれば、罪ではない人を、罪に定めるということを避けることができるからです。

『わたしは憐れみを望み,犠牲を[望ま]ない』ということの意味を理解していたなら,あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう。
(新世界訳聖書 マタイによる書12章7節)

 では命がかかっている場合に、輸血することを選んだ人は、罪を犯した人なのでしょうか。それとも、罪科のない人を罪に定めていることになるのでしょうか。

結論

 それで、僕はこう結論します。血を避けることは、ノアの時代から現代まで続いている神の命令です。けれども、命がかかっている場合においては、エホバは、そのおきてを緩和されるでしょう。エホバは犠牲よりも、憐れみを望む神なのです。