組織(99人)のためにひとりを犠牲にするのではなくて、ひとりのために組織(99人)が譲歩する

 イエスのたとえ話の中でも、99匹の羊と1匹の迷える羊の話は、好きな人が多いのではないかと思います。知っている人も多いですが、いちおう概略だけを書いておきます。

 1匹の羊が迷子になりました。イエスは羊飼いです。イエスは99匹の羊を残して、迷子になった一匹の羊を探しに行きます。そして、その一匹が見つかると、99匹の羊とともに喜びます。天のみ使いたちも喜びます。

 「羊飼いが離れているうちに、99匹の羊が狼に食べられたらどうするの?」ということでしょう。だからお金が目的の羊飼いは、1匹くらいいいや、99匹がいるのだからと思うでしょう。

 けれども、イエスは立派な羊飼いです。イエスは、お金ではなくて、ひとりひとりの羊を愛しています。迷子になった一匹の羊を置いていきはしません。99匹を置いておいて、1匹を探しにいきます。99匹はイエスが離れて不安ですが、1匹になった羊は、もっともっと不安ではないでしょうか。

 一匹の羊を放っておきさえすれば「羊飼いと99人」は安全に家に帰っていくことができます。けれども、99人のための幸福は、エホバのご意思ではないのです。エホバは求める人すべてにとっての神なので、ご自分の羊のひとりひとりが大切です。

組織にとって不要になった兄弟を排除するという考え方をやめよう

 エホバの証人の仲間や長老は、普段は優しくて、温和です。けれども、ある兄弟や姉妹が、組織にとって有用でないとわかったときに、豹変したり、脅して排除するということが、実際起こっています。

 エホバの証人の優しさには、やっぱり欠陥があって、よい子でいるうちは優しいという優しさなんです。特に「統治体から見てよい子でいるうちは優しい」という意味の優しさです。

 長老たちは「小さなひとりの兄弟」と「巡回監督」のどちらを選ぶかといえば、おそらく「巡回監督」を選ぶでしょう。そうしないと、特権を失うという恥ずかしい目にあってしまいます。今まで我慢して、はいはいと言って、よいしょをして、やっと獲得できた特権を失ってしまいます。特権への愛のために、小さなひとりの兄弟が犠牲になっています。

 統治体は「会衆の小さな一人の兄弟」と「長老」のどちらの益を守るかといえば、長老の益を選びます。長老と巡回監督のどちらを益を守るかと言えば、巡回監督の益を守ります。統治体から見て、よい中央に属する人の益を守ろうとします。

 ですから守られる順番が

子ども < 普通のエホバの証人 < 長老 < 巡回監督 < 統治体

の順番になってしまっています。
でも神の基準で言えばより弱い立場にある人が守られなければならないです。

子ども > 普通のエホバの証人 > 長老 > 巡回監督 > 統治体

の順で守ってあげるほうがよいのではないかと思います。

 今まではやっぱり、組織のために一人を犠牲にしてきた面が大きいんじゃないかと思います。そうではなくって、一人のために99人が譲歩できるならもっとよくなるんじゃないかなぁと思います。

 そのひとりを、変わった人、おかしい人とか、愚痴っぽい人、何も考えていない人、反抗的な人、精神的な病気の人という目で見るのではなくって、そのまま認めてあげて「清いものにとってはすべてのものが清い」というイエスの言葉を信じて、清い目で接することができれば、もっとよくなるんじゃないかなぁと思います。