聖霊はひとりひとりの個人を導く。組織というかたまりを導くわけではない。

 聖霊が働く単位は個人です。神を祈り求める人ひとりひとりに対して、聖霊が働きます。エホバは、聖霊がはたらく個人を通して、その力を表し示されます。

 ですから「エホバは組織を導いておられる」という表現を使うのはやめにしませんか。エホバは、今現在は組織という巨大なかたまりを導いておられるわけではないからです。

 イエス・キリストの登場の前においては、エホバは、イスラエル国民という、特定の血筋を持った国民を導いておられました。けれども、イエス・キリストの登場の以後は、イスラエル国民は退けられ、イエス・キリストに信仰を働かせる個人が、神のみ前で、聖なる国民とみなされるようになりました。

 神の民は、イスラエル国民から、イエス・キリストに信仰を働かせる民に移りました。聖霊はひとりひとりに対して働くのであって、何か漠然とした巨大な組織に働くわけではありません。聖霊によって導かれている組織が先にあって、個人がそこに属するのではなくて、聖霊によって導かれている個人が先にあって、個人の協力によって、会衆が運営されます。

聖霊は個人を単位として働く。会衆は聖霊に導かれた個人の協力によって運営される。

 組織というのは、その規模が大きくなるに従って、個人を、組織の中に飲み込んでいきます。個人と組織の関係が逆転します。そのとき、神への崇拝は、知らない間に組織崇拝へと変化していきます。

 ものみの塔協会は大きくなりすぎたと思えます。現在数千億の資産を所有しています。そして、ものみの塔協会のオーナーが統治体なので、統治体は間接的に数千億円の資産を所有しています。

 わずか10人足らずのクリスチャンが、数千億の資産を所有している現状は変だとだれかが言わないといけないと思います。こんな状況が、1世紀のクリスチャンの型であるといえるでしょうか。1世紀のクリスチャンは、一箇所に資金をプールするような会衆の運営をしていたでしょうか。みなさん真剣に考えてください。エホバを待つのではなくて、早く統治体に伝えましょう。仲間内のことは、仲間内で解決できます。

さて,金を愛する者であるパリサイ人たちがこれらのすべてのことを聴いていて,彼のことを冷笑しはじめた。そこで[イエス]は彼らに言われた,「あなた方は人の前で自分を義とする者たちですが,神はあなた方の心を知っておられます。人の間で高大なものは,神から見て嫌悪すべきものだからです。
(新世界訳聖書 ルカによる書16章14節)

 統治体は「わたしたちはよいことをしている、このお金は宣教のためのお金だ」といって人の前では自分を義なる者としてしめします。けれども、統治体の現状は、実質的には金を愛する人で、10人足らずのクリスチャンが数千億の資産を有していて「人の間で高大」なものとなっています。