エレミヤの本p54から始まる「あなたはだれを友にしますか」という章は統治体の強い誘導になっているので指摘しておきます

 まずこの章は、エレミヤの預言書を解説したものではなくって、まず最初に結論ありきの構成になっています。結論は以下になっていて、この考えに誘導したいがための章です。

よい交わりとはエホバの証人の仲間との交わり、悪い交わりはエホバの証人以外の人との交わり

 この結論を導くために、それとなくエレミヤの物語の中で該当しそうな部分を取り出して、正当化するという流れになっています。エレミヤの書のテーマとは、何の関係もないです。

 まず最初にパウロの言葉を考えてみましょう。

惑わされてはなりません。悪い交わりは有益な習慣を損なうのです。義にしたがって酔いから覚めなさい。罪を習わしにしてはなりません。
(コリント人への手紙15章33-34節)

 悪い交わりとは何を意味しているでしょうか。それは、内容のことを述べていて、罪を慣わしにするような遊びや集まりのことを指しています。

 たとえば、暴飲・暴食にふけること、浮かれ騒ぎをすること、泥酔してしまうこと、遊びにセックスが伴うこと、他の神への崇拝行為をともなうもの、このような交わりは、有益な習慣を損ってしまいます。会衆内でも、会衆外でも起こりえることなので、内外の区別なく、よく祈って、その交わりに加わってもよいかを考える必要があります。
 
 しかし統治体とものみの塔協会は、悪い交わりという言葉を次の意味に変化させてしまいます。

悪い交わりとは、エホバの証人以外の人との交わりである。

 つまり統治体を崇拝しない人との交わりを、極力避けるようにという結論に導いていきます。なんのためでしょうか。それは外部との接触を絶たせることで、垂直的な支配を行いやすくするためです。

 外部の情報を遮断して、統治体の見解だけを、支持させるための仕組みになっています。愛によるアドバイスではなくって、統治体の支配権を維持するためのものです。この方針のせいで、子どもたちは、必要以上の窮屈さを味わうことになります。

 子どもたちが窮屈さを味わうのは、世が腐っているというわけではなくって、統治体の偏狭的な方針のせいであるということを理解してほしいです。この方針は子どもたちに多大な負担を強いています。自分の行いの内容ではなくって、自分の所属するグループによって、善悪を判断するのは危険です。

それで多くのクリスチャンは、この世での利益や昇進の見込みが失われるとしても、悪い交わりを避けます。また、顧客にうそをつくことを何とも思わない雇い主や同僚がいても、真のクリスチャンはそのような人の考えに流されたりしません。
(p60)

 このような文章には問題があります。なぜなら統治体はこの世での利益や昇進に対してはいつも否定的に語りますが、会衆内での利益や昇進に関しては、いつでも肯定的に語るからです。会衆内での特権をとらえることはよいこと、会社での昇進は悪いもの。世の高等教育は悪いもの、統治体が与える特別な学校教育はすばらしいもの。こんな考え方です。

 また、うそをつくことを何とも思わない雇い主を避けなさいといいますが、統治体自身がうそつきです。たとえば、1914年と1919年という年代は何の根拠のない嘘であるのに、統治体が語った場合だけは「神意である」とか「神に是認された言葉である」とか「現在の真実」だというからです。

統治体の嘘やでたらめは飲み込みなさい、世の人の嘘は憎みなさい。

 こういうことを続けていると信用を失っていってしまうと思います。「統治体の言葉を真実と受け止めない人は排除しちゃうぞ」という恐ろしい方針をなくしてほしいです。

エレミヤはエホバからの指示に従って、邪悪な者たちを繰り返し糾弾しました。
(p61)

 いいことが書いてあります。まさにこれが、エレミヤ書の主要なテーマで、罪を犯して悔い改めないイスラエルの民と宗教指導者に対する、エレミヤの孤独な奮闘を描いているからです。自分の民と宗教指導者に対するエレミヤの奮闘です。

 では最後にパウロの言葉を書いて終わりにしたいと思います。パウロは平衡の取れた見方を持っていました。世から出たり、極端に人を避ける必要はないのです。

わたしは自分の手紙の中で,淫行の者との交友をやめるようにとあなた方に書き送りましたが,それは,この世の淫行の者,あるいは貪欲な者やゆすり取る者,また偶像を礼拝する者たちと全く[交わらないようにという意味]ではありません。もしそうだとすると,あなた方は実際には世から出なければならないことになります。
(新世界訳聖書 コリント人への第一の手紙5章9-10節)

 人から強い影響を受けるということをきちんと理解しながら、いつでもイエスを通してエホバに祈って決定するのがいいと思います。