「これは規則ではない」という言葉の裏側にあるもの

 「これは規則ではない」とか「これは強制ではない」とか「これは義務ではない」という前置きを、僕はたくさん聞いてきたような気がします。

 それなのに、それをいう人の心の中では、それがほとんど規則のようなものになっているように感じます。

 「旅行にいくこと自体は悪いことではありません。けれども...」「お金自体は悪いものではありません。けれども...」「集会は強制ではありません。けれども...」「レクリエーションは有意義なものです。けれども...」「若いうちに結婚することは悪いことではありません。けれども...」

 研究用ものみの塔は、このような話のオンパレードになっています。聖書のお話とは関係なくて、結論は、統治体とものみの塔協会の意図したいところに向けられていきます。

 それは、宣教奉仕によって人を集め、自分の支配下におき、お金を集めるという意図です。すべては、ここに向かって引き寄せられていきます。

 たとえば、こんな風に。「旅行に行くこと自体は悪いことではありません。けれども、それは宣教奉仕や集会の時間を割いてまで、いくべき価値があるといえるでしょうか」「若いうちに結婚することは悪いことではありません。けれども、若い人たち、独身の自由な時間を宣教奉仕に使うほうが、より有意義ではないでしょうか。」

 統治体とものみの塔協会が、こんな感じですから、巡回監督もこんな風に助言します。もちろん影響を受ける長老もおなじような雰囲気になります。

 すべての助言は、宣教奉仕によって人を集め、自分の支配下におき、お金を集めるという意図のためのものです。すべては、ここに向かって引き寄せられていきます。

 たとえば「開拓奉仕を行っていることは、より神の王国を第一としているといえますね。何よりも謙遜であることが重要です。長老にもちいられやすいようになることは大切なことだと思いませんか。金銭は、王国の業を支えるためにもちいるのが、賢明だと思いませんか。」

 巡回監督は、完全に、統治体とものみの塔協会のための、奉仕者になってしまっています。表向きは兄弟・姉妹たちのためにやってきますが、そうではなくって、統治体とものみの塔協会が、会衆を管理するためにやってきます。

 巡回監督は、相当に訓練されているので、表向きのニコニコ顔の裏にあるものは見抜きにくいですが、注意したほうがよいと思います。組織への感謝を行うように、祈りや、実演、大会での話を構成するように、統治体から指導がでているので、たくみに紛れ込ませてこようとします。