「愛がある」ということと「実際に愛を示すこと」

 「○○は愛のあることです」というのは誰だっていえます。でも、そういったって、それは愛のあることにはならないです。「主よ、主よ、というものが神の王国に入るわけではなく、神のご意志を行う人が神の王国に入るのです」。それで、ただ言うだけではなくて、実際に示すことに意味があります。

愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず,不義を歓ばないで,真実なことと共に歓びます。すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐します。
(新世界訳聖書 コリント人への第一の手紙13章4-7節)

 「○○は愛のあることです」という言葉は、実際に愛の特徴が反映されていなければ、ただ言うだけの人になってしまいます。反対に「これは愛のあることです。どうしてあなたはそれを支持しないのですか」という脅しの言葉に変わってしまいます。

 自分は神に是認されているという人の言葉によって生きるのではなくって、僕たちは、神の言葉によって生きなければなりません。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちはエホバのものです。」「確かに,民は青草である。青草は干からび,花は枯れた。しかしわたしたちの神の言葉は,定めのない時に至るまで保つのである」

 それで、永遠に生きておられる神に対して、言い開きができようにしておかなければなりません。巧みに誤導する人間の言葉ではなくって、神の言葉によって歩まなければなりません。

 その行為は辛抱強さを表していますか。無慈悲な決定でしょうか。その行為は、親切でしょうか。それとも、多くの人が不親切と認識する行為でしょうか。その行為は、自分の権威を守るためですか。それとも小さな兄弟を、保護するものとなっているでしょうか。

 その行為は、確かに真実なものですか。聖書にしっかりとした根拠があるでしょうか。また誤認が多発していませんか。真実に対して、しっかりと立っているでしょうか。

 神に是認されたと自称する人々が言うことをそのまま受け入れるのではなくって、僕たちは、聖書に書かれた神の言葉によって吟味するということを、続けていく必要があります。そうしないと、真実の中を歩いていると信じていながら、偽りの中を歩いていくことになるからです。真実を伝えていると信じていながら、偽りを伝えることになるからです。「すべてのことを確かめなさい」「霊感の表現すべてを信じてはなりません」とあります。