記念式が近いのでイエスに関連したお話 その1

 イエス・キリストは複数の役割を担っています。そのひとつに、大祭司というものがあります。

人の中から取られる大祭司は皆,人々のため,神にかかわる事柄の上に任命されます。供え物や罪のための犠牲をささげるためです。彼は,自分もまた自らの弱さにまとわれているので,無知で過ちを犯す者たちを穏やかに扱うことができ,それゆえにまた,民のためにするのと同じように,自分のためにも罪のための捧げ物をすることを余儀なくされています。
(新世界訳聖書 ヘブライ人への手紙5章1-3節)

 イエス・キリストについて、わかったような、わかっていないような、気がしているのじゃないかと思います。みんなけっこうイエスが果たした役割については、実際のところあまり知らないのではないでしょうか。イエスのことを深く知ると優しくなれる気がします。

 大祭司というのは、古代の時代において、神とイスラエル人の間を仲介する役目を担っていました。神はお一人ですが、イスラエル人は多数であるので、仲介者が必要でした。イスラエル人は、仲介者を通して、捧げものや、罪の犠牲を捧げました。

 僕たちは、大祭司という役割がイエス・キリストにあたえられているものであるということを忘れてはいけません。それ以外の人間を通して、神と関係を持つことは決してできません。

 たとえ、だれか人間が、自分が仲介者である、自分が経路であるといったとしても、聖書が伝える真実は、イエス・キリストだけが道であって、仲介者であるということだけです。これ以外のことをのべる人は、反キリストと呼ばれています。

 またイエス・キリスト以外の経路を認めさせようとする人たちも、反キリストです。長老たち、巡回監督、あなたがたもまた、反キリストとしての道を歩んでいないか心配になります。

 イエス自身もまた、人間の弱さにまとわれていました。その故に、イエスは、人の痛みを知ることができましたし、罪を犯す人たちを穏やかに扱うことができました。

 イエスが、姦淫を犯した女性や罪人と接するときに示した穏やかさを観察してみてください。それは、とても優しい態度です。偏狭的に排除を実行する人たちとは、対象的な態度です。

 イエス・キリスト自身が、なだめのための犠牲として、自らを差し出しました。特権や権威を持つ人たちは、自分の立場や組織内での権威を守るために、弱い人たちを犠牲に差し出す傾向にあります。

 イエス・キリスト、この方は、そのような方ではありません。人類の罪のために、自分自身を罪の犠牲として差し出しました。強いものが、弱いものために行動しました。ですから、僕たちは、イエス・キリストを信頼することができます。