記念式が近いのでイエスに関連したお話 その2

 イエスがすごいと思うのは、善人の偽善をちゃんと見抜いていたということだと思う。自分を善人に見せる人とというのは偽善に満ちているということをきちんと見抜いていたのはすごい。

 パリサイ人というのは、きちんと律法を守るということで知られた宗派の人でした。それで、人々の前では、義なる人としての評判を得ていました。しかし、イエスは、自分を善人とする人の偽善を見抜いておられました。

あなた方は人の前で自分を義とする者たちですが,神はあなた方の心を知っておられます。
(新世界訳聖書 ルカによる書16章15節)

確かに外面では義にかなった者と人に映りますが,内側は偽善と不法でいっぱいです
(新世界訳聖書 マタイによる書23章28節)

 実際には、収税人や罪人たちというのは、パリサイ人たちから差別の対象となっていましたし、貧しい人たちや、病気の人たちは、たくさん存在していました。貧しさや不潔さというものは、避けるべき対象となっていました。

 結局のところ、外面をきれいに装うこと、また神のためという理由で金を集めることが、パリサイ人の義でした。しかしイエスは、その偽善を見抜いていましたし、外面のことがらが人を汚すのではなくって、心からでる悪い言葉が、人を汚すことを知っていました。

 外面ばかりを観察する、巡回監督や長老は、パリサイ人にとてもよく似ています。奉仕時間、割り当ての時間、集会の出席率、会計のチェック、記念式の人数、大会の人数、服装、髪型、振る舞い方、男女の接し方、話し方、あらゆる外面によって、会衆やその人が模範的かどうか、またふさわしいかどうかを判断しようとします。

 巡回監督と長老に言っておきますが、あなたがたの口からでる無思慮な言葉が、人を傷つけ、萎縮させ、自信をなくさせ、自立を阻み、外見を過度に意識させるようにしています。神を崇拝しているといいながら、外面で判断して、神の言葉を無にしています。「彼は目で見る単なる外見によって裁くのではない。」

 聖書が「単なる外面によって裁くのではない」と言っているのに、外面で裁くあなたがたは何ものなのですか。「外面は気にすれば気にするほどよい」と助言するあなたがたはいったい何ものなのですか。