記念式が近いのでイエスに関連したお話 その3

 イエスが、偉いと思うのは、自分自身に関してこれっぽちも善いとは考えなかったことだと思う。イエスは一貫していて、いつでも「神は善い」という価値観を保っている。

「善い師よ,永遠の命を受け継ぐためには何をしなければならないでしょうか」。イエスは彼に言われた,「なぜわたしのことを善いと呼ぶのですか。ただひとり,神以外には,だれも善い者はいません。
(新世界訳聖書 マルコによる書10章17-18節)

 自分の基準を善いと思っている人や自分の属する組織を善いと思っている人は、傲慢な人が多いと思う。自分の善や、自分が属する組織の善を押し付けてくる人というのは、とってもやっかいだ。

 また「周囲を見回しなさい。みんながやっているでしょ」という多数決による善を押し付けてくる人も、僕は苦手だ。みんながやっているから、正しいとはぜんぜん限らない。みんながやっているから、自分がやらないといけないわけでもない。

 神とイエスを知って、そういう束縛から自由になったのではないのでしょうか。多くの重荷を捨てて、イエスの追随者になったのではなかったでしょうか。神を知るようになって、自分と神との関係で、生きるようになったのではなかったでしょうか。「生きるにしても死ぬにしてもわたしはエホバのものです。」

 イエスと同じように「神は善い」という価値観を保っていれば、何かを押し付けたり、周囲に圧力をかけたりすることから、守られると僕は感じている。なぜなら、自分が善いわけではないということを理解していたら、自分の善を人に勧めることなんてできないからだ。

 自分の目が腐っているということを理解していたら、人の好みにあれやこれやいわなくても、いいのじゃないかなと思う。

 統治体とものみの塔協会がおかしいのは、自分の信じている神の価値観を、人に押し付けるということだ。これは「神の価値観です」といいながら、実際は人の価値観だ。これはたちが悪い。特に統治体の権威を高めるために、聖句を引用するときは、本当にひどい。

 イエスが糾弾したパリサイ人は、人の価値観を教えておきながら、それを神の価値観のようにみなして教えていた。パリサイ人は、善いと呼ばれていたから、イエスは、自分が善いと呼ばれることを嫌った。

 自分を善いとする人や自分に感謝を求める人が、実際は偽善者であることを見抜いていた。イエスは自分を見せかけの善いで飾るのではなくって「神は善い」という価値観を、ずっと保った。神を高め、自分を低めた。その結果、神はイエスを、高い高い天にまであげた。「確かにこれは神の子であった」

 この方を通してだけ、エホバを崇拝する。これが正しい崇拝の方式だ。